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世界は人間には難しすぎる

私の父は注射が嫌いでしたが、風邪をひいたりすると病院で「注射を倍打ってすぐに治してくれ」みたいなことを平気で言いました。クスリも滅多に飲みませんでしたが、倍飲んだらすぐに治る、みたいなことを言っていたような気もします。

娘が同じ発想なのには驚きました。熱が出てクスリを飲んでもらったりすると「足りない。もっと飲む」みたいなことを言うわけです。

「クスリは飲む量決まってるからね〜。それに、たくさん飲んだら早く治るとか、そういうことないからね〜」

ということを、子どもの頃から何度も言い聞かせていますが、それでもいまだに「足りない」とか「倍飲む」とか言っています。

大前提として、「なんにもわかっていない」というのがあります。何もわかっていないから何もかもなんとなくなのです。なんだろなあ、常識みたいなものが足りていません。学校で習ったようなことでも全然頭に入っていませんから、学校で習わないような社会常識のようなものが完全に抜け落ちていてもしょうがない気もします。

以前から何度か触れていますが、自分はベーシックインカムには反対です。時給を上げてインフレを目指すのも反対。何故かというと、自分でお金を管理出来ないヒトにはお金があっても意味がないからです。生活に必要なお金を無駄に使わないようにしながら病気や怪我などの緊急事態に備えるというのは、病気や障害や老いといった理由がなくともなかなか難しいことです。みんながみんなよく考えて収入に見合った身の丈の支出を管理できるわけではありません。お金があっても先々のことを考えず無駄に使ってしまうヒト、普通に暮らしていても多いじゃないですか。エラそうなことは言えません。自分もです。

お金のことだけではありません。ここ数年のパンデミックでは「自分の頭で考えた結果として常識ハズレの行動を取ってしまう人々がどれだけ多いか」ということについて、つくづく多い知らされました。

学校で習ったことを覚えていないとかそもそも社会常識がないとか、そういうレベルの話ではありません。一般的には健康や保健について高い見識を持っているはずの医療従事者でさえ、突飛な意見に固執してしまう例が多々見られました。科学者も全然ダメでした。専門外のことでもわかったつもりでトンチンカンな独自解釈を振り回すヒトの多いこと多いこと。正直、うんざりです。

これは、個々人の責任だけではないと自分は思っています。政府やメディアのせいでもない。なんというか、そろそろ世界は人間という生命体の個人のキャパシティを超えているのではないかと、そんなことを思い始めています。

そんなことを思うようになったきっかけは娘の病気です。病因も分からず特効薬も存在せず効果的な対処療法も確立されていない病気に対して、現時点での医学や薬学はあまりに無力です。それでも薬物が存在しなかった昔と比べたら格段の進歩なのはわかります。今も薬には本当に助けられていますし、効果を疑うこともありません。それは承知の上で、こう思うのです。この病気については何もわかっていないではないかと。いや、娘の病気だけではありません。この世界はわかっていないことだらけです。

でも、それ、全部自分の頭で考えて行動しないといけないですか?

ある種のコモンセンス(常識)に身を委ねて従うじゃダメですか?

こう書くと人知より大きな存在に身を委ねてみたいな話に読めてしまうかもしれませんが、私が言いたいのはそういうことではありません。人知を超えたなにかにすがるのではなく、人知を信頼して判断を委ねるという方向です。

分からないことは分からないでいいじゃないですか。現時点で分かっていることを信用しましょう。

分からないことに無理に解答を求めることはないです。分からないことは分からないままでも特に困ることはあまりありません。これから先、わかるかもしれないじゃないですか。生きてるうちかどうかはわかりませんが。

娘を見ていてつくづく思うのは、「わかったッ!!!!!」みたいなのは全然ダメだということです。何もわからないのに急にわかるのはかなり危険です。考え方がとかではなく、直接的に病的な意味で言っています。

これ、何かに似ているなあと思っていたのですが、最近ふと気がつきました。アートの鑑賞って前提となる諸々を理解しているしていないで大きく変わるんですよね。単にキレイとかではなく、前提となる諸々を理解することで解釈の幅が広がる。むしろ前提となる諸々を理解しないままの感想だけだと足りなかったりするのです。

そもそもヒトは一生かけても世界のすべてを理解することなど出来ないのは当然として、世界で生み出され消費される情報が加速度的に増加している現代社会では、個々人が把握できる「世界」はごく狭い範囲のものでしかありません。その狭い世界のことですら分からないのに、「世界のすべてがわかった」みたいな話があるわけはないです。娘は何度か言っていますが。

なんでもわかるのは危ないです。

ただ、「自分はなにもわからないから判断を委ねたい」となった時に受け皿となるコモンセンス(常識)が共有できるかできないかが運任せの現状にも危惧は感じます。誰かに頼るみたいな「ヒト」を前提としないコモンセンスの共有は可能なのでしょうか。義務教育がその役目を果たすのが良いのでしょうが、義務教育ですらコモンセンスと成り得ない現状を思うと……。

世界は人間には難しすぎるということか。

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