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読書日記#02: 優しい言葉を紡ぎたい~『世界中で言葉のかけらを』

「読書日記」を始めて2回目になります。前回は、「読書と私」というタイトルで、自分にとって本を読むことはどんな意味があるのか、なぜ読書を趣味にしているのかについて簡単にお話ししました。

このシリーズの目的は?と言われれば、社会人になっても本をたくさん読みたい、というのもありますが、それ上に、文章(エッセイ)を自分で書いてみたい、というのもあります。

「読む」ことと「書く」ことはいわば呼吸のようなもので、どちらに偏っても息苦しくなってしまう。それはいずれもことばを使った営みで、相互に繋がり合っている。「読む」なかで自分をつくることばに出逢い、「書く」なかで自分の思いをことばにする。そのような営みのなかで、「言葉をもっと自在に操れるようになりたい」という思いがあるからです。

その話はいずれ改めてお話することにして、今回はことばについて書かれたものを読みたくて、書店でふと手に取った1冊をご紹介します。

日本語教師としてパリで教えた経験、学生時代に訪れた街での出来事、自分の知らない言語に出逢った経験などを、時にはエッセイ風に、時には散文や詩のようなかたちで、内容も表現法も多種多様に描かれています。まさにタイトルのとおり、世界中でいろいろな言葉のかけらを拾い集めて作り上げたような、そんな心温まるエッセイです。

この本の雰囲気が好きなのは、1冊の本を通して「私はこれが伝えたい」という内容が明示されていないところです。ただただ、訪れた地で実際に起こったことをつらつらと書いていて、それでいて、じわじわとその人の思いが伝わってくる。「結論ファースト」のプレゼンテーションや、重要な部分がマークアップされている文章とは、全く異なった趣があります。

「筆者が伝えたいこと」を明確に示し、読者がそれを読み取ることももちろん大切なのでしょうが、読書の世界がそれだけだとしたらちょっと寂しい気もします。伝えたい内容が明確に書かれていないということは、私たち読者がそれを決めてよいということでもあります。どの部分を大事だと、面白いと思ったか、どんなことを感じたか、それは読者の手に委ねられている。この本の醍醐味は、そこに秘められていると言ってもいいかもしれません。

全部英語でいいのか?

日本語を学ぼうとする学生は世界中にいて、いろいろなバックグラウンドを持った人が集まってきます。もちろん母語が英語の人、中国語の人、韓国語の人もいれば、今の私たちにはあまりなじみのない言語を母語とする人、なじみのない文化圏をルーツにする人もいる。自分とは全く異なるルーツを持った人と接すると、月並みですが「世界は広いな」と思うことでしょう。そんな多種多様な外国人学生と接するなかで、著者の山本さんは今の日本の風潮に疑問を呈していきます。

「英語が話せればいいじゃないか。今だったらたいていの国に行けば英語が通じる。現地の言葉を知らなくたって暮らしていける。例えばフランスに行ったって、英語がわかればパンを買うことができる。」

そんないわば「英語至上主義」の風潮が、今の日本にはあるのではないでしょうか。この世界で生き残るには英語が必要だとして、早期から英語教育を始める学校もあります。母語である日本語や、英語以外の外国語を軽視する意見も決して少なくない。それに対して、山本さんは次のように述べています。

新たな言語に振れ、その音で鼓膜をふるわせる。つたなくとも声にしてみようと、唇や舌を今までにない形で動かす。新たな言語とその言語を使う人たちに自らの生を繋げる。そこから得られる体験は、パンを買えるなどということだけではないはずだ。(P.52)

言語を学ぶというのは、ただ「文法を知る」「話せるようになる」ということだけでなく、その言語を話す人の暮らしを追体験することでもあるというのです。

たしかに、言葉はその人の生活の根幹をなすものでもあると思います。たとえばアジアや中東、アフリカ世界のことを知ろうと思えば、英語の文献を読むだけでは十分ではなく、現地の言葉を学び、現地に足を運び、現地の文化や風土を知ることが必要です。言葉にはその土地の風土や文化が反映されており、自分が学んだ言葉の知識がその土地とリンクする瞬間が必ずあると思います。

言語を学ぶときに大切なのは、その言葉が話せるようになるということだけにはとどまらないのだと思います。例えば、母音や子音の体系が違ったり、日本語にはない表現があったり、あるいは日本語にはあってもその言語にはない表現があったり、日本語の一単語が、別の言語だと何通りにも表すことができたり。その言葉の違いを学ぶということは、ものの考え方の違いを学ぶことでもあって、フランス語なら「フランス人になってみる」ということなのかもしれません。

未知の言語を学んでみる

大学に行くと第二外国語が必修であることが多いですよね。フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、中国語、韓国語、色々な言語から選べます。外語大学や外語学部に行ってみると、もっともっとマイナーな言語が開講されていたりするかもしれません。

私は中高時代に英語が好きだったので、それに近い言語をいくつか学んでみました。メインではフランス語を学びながら、ときどきドイツ語やスペイン語に手を出してみて、最終学年にはラテン語もかじってみました。ほとんど身になりませんでしたが。

いろいろな言語を学んでみると今まで知っていた言葉が全く違うように見えることがあります。例えばヨーロッパ言語をいくつか学んでみると、なんとなく言葉の音や文字が似ていたり、ルーツが似ていたりします。英語では歴史のなかで消えた意味がほかの言語では残っていたり、英語やフランス語のルーツをラテン語のなかに見つけたりすることもできます。

こちらの本、以前に友人から薦められたのですが、同じ文学作品の対訳版が28言語分のっていて、なかなか面白いです。後半にはあまりなじみのない言語、ラオス語、ベトナム語、ベンガル語、ペルシア語の訳も出てきていて、それぞれ言語学的な分析もされています。28個全部を精読するのはちょっと難しいですが、パラパラめくって読み比べてみるだけでも、語順や単語の作り方が言語によって全く異なっていて、それぞれ異なる世界観を持っているのが分かります。

『世界中で言葉のかけらを』のなかでも、未知の言語に触れることについて、次のように述べられています。

自分にとって未知の言語に触れる、学ぶということを通して、私の生活は、日本語しか使えないと思っていた頃とはずいぶん変わった。もちろん私は、まだたくさんのことを知らない。たとえばベンガル語もパシュトー語もモホーク語もできないけれど、もし人生に十分な時間さえあれば、そうした一つひとつに取り組んでいけるだろう、いまは見えない景色が見えてくるだろう、という予感がある。

言語が文化や暮らしを反映したものであるとすれば、私たちが話している言葉は、私たちの生き方そのものを表すものなのかもしれません。例えば日本語は敬語が何種類もあったり、同じ言葉に何種類も漢字を当てたりします。書き方にも楷書と行書と草書があって、文字を書くことそれ自体が「芸術」になるのも、特徴的かもしれない。それが何なのかははっきりしないけれど、私たちの母国語である「日本語」が、日本の文化や暮らしを象徴しているものであることは、かなりの程度真実なのだろうと思います。

そしてそれは何も、「○○語」という言語の括りに縛られるものではないのではないのかもしれません。例えば、いわゆる「方言」を考えてみればわかるように、日本のなかでも地域によって言葉の使い方が違っていて、東京と大阪、東北、北海道、四国、九州、それぞれの言葉がその地域の風土の違いを表している。

さらに言えば、同じ地域であっても人によって、言葉遣いは異なることもある。一人称を何と呼ぶのか、感動したときに「すごい」「やばい」「素敵」のどれを使うのか、別れ際に「バイバイ」「さようなら」「またね」「元気でね」「気をつけて帰ってね」のうち、どれを口にするのか。意識的であれ、無意識的であれ、言葉遣い、言葉選びは、その人の人となりを、これまで歩んできた人生を表すものだと思うのです

人は言葉によって他者との関係を紡ぎ出しています。そして、別の人が使っている言葉を学ぶということは、それが「外国語」でなかったとしても、その人の生き方や考え方を学ぶことであり、それが究極的には「他者理解」に繋がるのだと思います。

そのなかで、自分のなかにはなかった言葉に出逢うことができたり、その奥にある世界観を知って感動することもある。それまでは全く思いもしなかった景色に出逢えることもある。それが言語学習の醍醐味であり、さらにいえば他者と言葉を交わす魅力なのだろうと思います。

私は言葉選びも、こうして文章を書くのも、なかなか上手にはできませんが、できるだけ自分の気持ちに素直に、飾らない素朴な言葉でも、誰かの心に寄り添えるような、優しくてあたたかい言葉をつむげるようになりたいと思っています。

そのために、自分のこれまでの人生を振り返り、これからの人生を思い描きながら、どんな言葉を使おうか、どんなときにどんな言葉をかけられる人になりたいかを考える。そして、本を読んで、文章を書いて、好きな人と話して、いろいろな言葉の使い方を学んでいく。そして、筆者の言う「複言語者」になっていく。自分のことばの世界を深めていく。それが、私にとって読書の意義であり、文章を書く醍醐味であり、色々な人と言葉を交わす愉しみでもあります。

私にとって言葉というのはいわば泉のようなもので、生き物を癒しと安らぎを与え、その周りに草花や虫、そして人間が豊かに生きていくものだと思っています。その泉ができるだけ枯れることなく、消えることなく、これからも皆の心を癒してほしいと思っているし、できるなら私自身がその泉のような存在になりたいと心のどこかで思っています。私は私なりに、自分の母国語である日本語を、そして自分にしか紡げないことばを、これからも大切にしていきたいです。

なかなかまとまった時間が取れないので更新の頻度も落ちてしまいそうですが、ときどきこうして本を読みながら考えたことをつらつらと綴っていきたいです。拙い文章ですが、これからもご愛読いただけると嬉しいです。それではまた。

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