見出し画像

家族の肖像

1

 コバルトブルーヒューの残りが僅かになっていることに気づいたのは、描き始めてから一時間ぐらいしたときだ。

 二宮敬之、画家、独身。ひと月に描いた絵が1枚売れるか売れないかという、極めて不安定な収入を糧にして毎日もくもくと絵を描き続けている。とはいえ付き合って何年になるだろうか、すでに忘れてしまうぐらい長いつきあいの彼女のアパートに居候しているため、とりたて画家といった肩書きを名乗れるものかどうか……。

「げっまいったな、コバルトブルーヒューがなきゃ、この空の感じがでねーな。まあ、ウルトラマリンブルーでもいけるかもしれんけど」
 デッサンの段階で外出することはあったとしても、油彩を使う段階でこのように現地で描くことがあまりなかった敬之は、この日の為にたいした準備もしてこなかったのだ。

「しゃーねーな。ちょっくら、行ってくっか」
 絵の具がぐちゃぐちゃに固まり、持つ所もないぐらいに汚くなったパレットを、それまで座っていたキャンプ用の折りたたみイスの上に置いた。そして右手に持っていた筆を、インスタントコーヒーの空き瓶で作った筆洗い器の中に放り込んだ。
「どうせ、誰もとりゃしねぇだろ」
 どこから拾ってきたのであろうかと思えるぐらい古ぼけた自転車に乗って、敬之はその公園の敷地から出て行った。描きかけの絵とイーゼル、そして折りたたみ椅子上のパレットは、そのまま置き去りになっていた。

「どうも」
「あ、いらっしゃい」
 客はいつものように敬之だけである。この店で自分以外の客を見たことがない。ほこりのかぶったキャンバスや、古ぼけた絵の具しか置いていないことから、敬之はこの店にはほとんど客がこないのでは、と考えていた。
「えーと」
「あっ、あった」
 380円、大型ホームセンターに比べると五割も高い値段だ。それでもそこまで行く交通手段のない敬之にとって、公園のすぐ近くにあるこのお店を利用することは仕方のないことだった。
「じゃこれ」
「380円になります」
 オーナーの娘さんらしき、まったく化粧をしていない若い女性が丁寧に答えた。
「あっ、このままでいいです」
 敬之は、コバルトブルーヒューを胸ポケットに入れて店を出ていった。

「ほー、なかなか味のある絵じゃの」
 ほったらかしにしてあった絵を見ながら、見知らぬ爺さんがそう呟いていた。お店から自転車で帰ってきて、さあ今から描くぞと意気込んだ矢先だっただけに、敬之としては、何なんだこの爺さんは、という気持ちだった。
「あっああ、どうも」
 とりあえずそう言って、しばらくした後に爺さんが去っていくのを待った。
「きみはー、画家さんかい?」
 爺さんは横から見上げるように聞いた。
「ええっ、まあ、売れてませんけど」
 敬之は謙遜した。
「そうじゃのう」
「ちーと、考えすぎじゃないかの」
 敬之はその意味ありげな言葉から、その爺さんがある程度、絵に精通した人間ではないかと思った。
「――と言いますと?」
「うーむ、せっかくこうして現場で描いとるんじゃ、ここの空気を吸う者しか分からん、そういう絵を描かんと意味がないじゃろうて」
 爺さんはほほ笑みながらそう敬之に言った。
「なるほど」
 ほとんど外で描いたことのなかった敬之にとって、その爺さんの言っていることは、少し感心させられるものがあった。
「まあ、あんまり難しく考えんほうが、いい絵が描けるっちゅうもんじゃよ、意外とな」
「じゃ、がんばっての」
 爺さんは、とぼとぼとその場から去っていった。
「あっ、どっどうも」

 敬之は外でスケッチしているときに見知らぬ人間から、うまいね、と褒められることはあったとしても、いまの爺さんみたいに言われることはほとんど無かった。それぐらい、敬之の描く絵は上手く、そして味わいのあるものだった。
 師匠といえるべき人間を持たない敬之にとって、こういった正直なアドバイスは貴重だった。画家にとって褒められてさらにいい絵が描けるということもある。しかしながら、大学を卒業してから我流で描き続けていた敬之にとっては、将来的な自分の絵というものを模索している段階だったからだ。
「難しく考えるな、か」
「なるほどねぇ」
 敬之はぶつくさと唱えるように言いながら、そのまま描き続けた。 

「ただいま」
「あら、おかえり」
 同棲、いや夫婦、そう言われてもおかしくないような関係になっていた。敬之がアルバイトとして働いていたコンピュータ関係の会社に、正社員として勤めていたのが裕子だ。現在では、既に部下を何人も持つ立派なキャリアウーマンとなっていた。実質的にほとんど収入のない敬之を、十分賄えるほどの稼ぎが裕子にはあった。

「仕事は忙しい?」
 敬之がイーゼルを押入れの中に立て掛けながら聞いた。
「そうねぇ、ITもそろそろ違った展開をしないといけない時期かもねぇ」
 裕子は敬之がいつまでも絵にこだわり続けていることを暗に非難するかのような視線を送った。
「そう」
「この業界は移り変わりが激しいし、歳を取るにつれてその変化についていけなくなるのよ、絵画と違って古いものは役に立たないから」
 裕子は少し寂しげに言った。

 同い年の裕子にとって、結婚そして出産といった古典的な意味での女の幸せ、といったものを願うかのような、そんな感じにも受けて取れた。
 いつまでも絵にこだわり定職にも就かず、売れない絵ばかり描いている自分が、裕子に何かと迷惑をかけていることは十分すぎるほど分かっていた。国内の有名な公募展に出品し、自分の作品がある程度まで認められていると自負している現状と、一方ではそういった公募団体に属していたとしても、一般の人達にはなかなか絵を買ってもらえないという現実があった。
 たとえ売れたとしても、美術品としてではなく投資の対象として捉えられがちな画家の絵。そろそろ見切りをつけるかどうか判断する時期なのかと、自分に問いただす毎日だった。少なくとも周りの作り出した特異で偶像的な存在を除いて、ほとんどの画家はそう感じているのではと思った。
「こんど何かしら、権威のある賞でもとれなかったら辞めよう」
 敬之は心に決めていた。

 画家にとってその絵に価値があるかどうかの判断材料となる公募展、日本にもプロ・アマを問わずさまざまな団体が存在している。
 業界そのものにどれだけ貢献できるかどうか、その団体を維持できるような手腕がどれだけあるかどうか、集客力があるかどうか、大学や役人、または政治家にどれくらいのコネクションがあるかどうか、そして売れるようになった場合にある程度に説得できる絵が描けるかどうか。これくらいのレベルになると、それ以下の画力の人間などいるはずがない。最終的に残るのはごく僅かである。一般的な企業や組織のように、個人の能力が数値で表せられない芸術の分野である、仕方のないことなのだろう。
 人がその絵を鑑賞し欲しいと思うか、否か。敬之にとって絵の評価とはそういうものだった。

「ねぇ敬之、わたしずっと働いてもいいのよ」
 本心かどうか、敬之をためすかのような視線を送った。
「ふーっ」
 敬之はいつもの意地の悪い裕子の態度にため息をついて、こう言い返した。
「こんど駄目だったらきっぱりと諦めるから」

「おめでとう、敬之」
 数少ない友人の一人で、所属する美術団体の会員でもある淳が、握手を求めてきた。
「たいしたことじゃないよ」
 敬之は本気でそう考えていた。
『フランスパリ芸術賞』
 取って付けたような名前の賞、取り立て芸術の都パリと関係した賞でもない。敬之にとってとうてい満足のできるものではなかった。もう何年もこの団体に属し、毎年のように気持ちを込めて描いた作品を出品しつづけている。なのにやっととれた賞がこれだ。

「いいじゃねえかよ、俺なんか毎年入選だぜ、お前が羨ましいよ」
 淳はそうは言っていたけれど本心はどうかなと思った。
 敬之と同い年で大学も敬之と同じだったらしいのだが、淳とまったく面識はなかった。この美術団体にたまたま同じ頃に入会したのが淳と出会うきっかけだった。何となく気になっていた絵の作者が淳だったのだ。敬之は淳の描いた絵に、自分のそれにない魅力を感じていた。ただ淳の絵は毎年のように入選はするけれど、賞は一度もとったことはなかった。そしていつの頃からか、淳は絵を軸とした生活から他に職を見つけて働いていた。現在では、絵そしてこの展覧会は彼にとって趣味の内の一つとなっている。

「おれ、そろそろ辞めるかも」
 敬之は淳にそう呟いた。
「辞める?」
「ああ」
 敬之は真剣に淳の方を向いて言った。
「そろそろこんなんで食っていけるなんて思わなくなったんだ」
「画家としてやっていくのは、これでしまいにする」
 淳には敬之の気持ちがなんとなく分かっているようだった。同じような時期があったからだろう。そして絵を趣味とし、会社勤めをするようになった。それまでの不安定な生活から一転して、安定した生活を送れるようになったのだ。
 敬之の絵は何となくどんな感じの絵を描かないと賞はとれないんだということを知りながら描いたような絵だ。敬之は悟っていた、この団体にとってのパフォーマンスに必要な絵しか賞はとれないのだと。ならばおれ自身の絵なんて、この団体にいる限り描けないのでは?
「辞めよう」
 退会する決心をしたのだ――そして絵を描くこと自体も辞めるということも。

「現実はなかなか厳しいな」
 戻りそうで戻らない景気、良いのは大企業ばかりで、敬之の働けそうな中小企業の求人はほとんど無いといっていい。大学を卒業した後、特にサラリーマンといった職歴も持たず、アルバイトをしながら絵ばかりを描いてきたのだ。そんな人間が会社に入ったところで、即戦力というよりはむしろ足手まといになるだけだった。年だけ取ったろくに仕事もできない元画家よりも、給料も安くて済む、育てがいのある新卒をとる企業がほとんどだろう。
 敬之は結局、以前やっていたアルバイトを昼間にフルタイムで働くことにした。自給換算なので安い給料ではあるが、すでに何年もここで働いた経験があるため、正社員への登用も期待していた。


2

 アルバイトのない日の午後2時。
 絵を描かなくなった敬之は、その足はなんとなく美術館へと向いていた。こういう場所に来るのはこの前の展覧会以来だ。
『印象派の画家たち』
 古き印象派を好む敬之は、迷わずチケットを購入し美術館の中に入っていった。高い天井、美術館特有の空気感。
 鑑賞する立場でこういうところに来ることが少なかった敬之は、心を躍らせていた。近代的なモダンアートに比べると派手さやインパクトには欠けるものの、いかにもヨーロッパの芳醇な香りのする、ゆったりとした空気感が演出されている展覧会である。敬之は歴史的に有名な画家いかんを問わず、一枚ずつ全ての絵をゆっくり観賞した。休日でない日の午後のせいか思ったより客足も少ない。

 一通りの絵を見た後に、もう一度気に入った絵を見に戻ろうと、出口付近でUターンをしてもう一度入り口の方に歩いていった。美術館に来たときのお決まりの行動パターンだ。
「えーっと、ここらへんに――」
 フランスの有名な画家の絵を探しているとき、敬之は前にいる老人の後姿になんとなく見覚えがあることに気がついた。老人は目の前の絵をじっと見ていた。その後姿は、公園でアドバイスしてくれた爺さんが去っていく姿と酷似していた。
「おっ、爺さん」
 敬之はそのときより幾分きれいな格好をしているその老人の横に行くと、偶然見かけたようなそぶりで話しかけた。老人は敬之のほうをゆっくりと見上げた。えーっと、というような感じで、思い出そうと何やら考え込んでいる様子だ。

「爺さん、覚えてるかい? 公園で――」
 敬之はこんなところで爺さんに再会できたことをうれしく思った。いかにも絵画を見るのが好きだといわんばかりのその爺さんが、いとおしく思えたからだ。
「えーと」
 爺さんは覚えていたのかどうか、とりあえずそう答えた。
「爺さん、よっぽど絵が好きなんだな、よく来るのかい?」
 敬之は頭を低くして聞いた。
「そうじゃの、たまにな」
 爺さんは、以前とは少し違った感じで視線をはずした。
「爺さん、せっかくいいアドバイスもらったんだけどさ、俺、絵描くのやめたんだ」
「ほう、そうかい。残念じゃの」
「そういやぁ、爺さんも絵描くのかい?」
 敬之はなんとなく爺さんに聞いてみた。
「そうじゃの、たまにの」
 爺さんは少し思い出すような仕草をしていた。
「そっか、まあ、またいつでも描けるからな」
 敬之はその場から去った。

「んで、どうだったの印象派?」
 裕子の、絵なんかまったく理解したくない、といった感情がそこにあった。
「そりゃあ、良かったよ」
 当然だろうといった口調で言い返した。
「ふーん」
 結局、その会話は止めた。
 敬之がアルバイトを始めてから、裕子の機嫌は良かった。なによりまず裕子にとって油彩の匂いが我慢できないものだった。絵の具や筆の洗浄液の匂い、それらが無くなったため、裕子はある程度は満足していた。が、最後にもう一つ、画家にとって命の次に大切なもの、布団の代わりに押入れの中に重ねられている大量の絵の存在が嫌だった。
「ねぇ、あの絵、捨てていい?」
 裕子が怪訝そうに聞いた。
「捨てていい訳ないだろ、いつ価値が上がるか分かんないんだぞ」
「じゃ、今すぐ上げてよ」
 敬之は返す言葉もなかった。
 次の日、仕方なく倉庫を貸してくれるところに行き、自分の描いた絵を全部、その倉庫に入れておいた。
「しばらくここで眠っといてくれ」
 敬之は、なごり惜しそうに倉庫の戸を閉めた。

『新都市美術館』
 テレビのニュースから、新しく建設された美術館が映し出されている。それまでの絵画展示の場とされていた美術館と比べると建物の規模も大きい。有名な建築家によるその美しいフォルムは、フランスのサロンの象徴とも言えるグラン・パレ美術館を意識しているかのようだった。
 二人はテレビの画面に映し出されたこの巨大な新都市美術館をぼんやりと見ていた。
「ふーん、すごい美術館ね」
「ああ」
「私たちの税金だけど」
 裕子は不満そうにつぶやいた。
「そうだね」
 敬之は自分の絵がその美術館の壁に飾られるところを想像していた。今までの美術館のそれとはまったく規模が異なる。100号いや、それ以上のサイズの絵でなくては、かえって違和感が生じるほどの規模なのだ。
 おれの絵をあの壁に飾りたい。
 敬之は封印したはずの絵に対する情熱が湧いてくるのをぐっとこらえた。
「敬之、まさかまた絵描きたいって言わないでね」
 裕子がその心を読んでいたかのように尋ねた。
「ああ、大丈夫だよ、別になんとも思っちゃいないよ」
「そう、ならいいけど」
 敬之は思った。絵はいつでも描ける、この新しく出来た美術館だって、そう簡単になくなりゃしない。
 今はこの生活のほうが大事だ。

 そして数週間後。
 一本の電話が敬之を愕然とさせた。

「警察です、ちょっとお話をお聞きしたいのですが……」

――淳が死んだ。

 あの展覧会以来、淳からの連絡がなかっただけに敬之もなんとなく気にはしていた。
 しかし、まさか。
 敬之はこの前の展覧会のときには、淳にまったくそのような素振りはなかったこと、そして淳との今までのつきあいなどをすべて警察に話した。
 埠頭のヘリコプターの着陸場から、淳の車でそのまま海に飛び込んだらしいのだ。遺体の一部に殴られた後があり、他殺の可能性もあるため捜査しているらしかった。

――しばらくして、淳の葬儀が行われた。
 友人として式に参列した敬之。昔の美術仲間らしき友人、会社の職場の人たち、そして淳の彼女と思われる女性が泣いていた。あんなに人当たりが良く、悩みごとなどまったくないのではと思っていた淳が、このような事件にどうして巻き込まれたのか、不思議でならなかった。
 淳の家柄のせいなのか、かなりの参列者だ。そしてどちらかというと年配の方が多い。そんなに付き合いがあったのかどうかは知らないが、どこかで見たことのある人間が多い。そんな中、敬之は会ったことのある人物がいることに気が付いた。

 爺さん――。
 敬之が絵を描いていた公園、そして印象派の展覧会で話した、あの人物だ。
 御遺族の一番先頭で喪主をつとめている。
 淳の父親らしかった。
 隣には奥さんらしき女性がいた。少し先の地面を傍観している。
 その威厳に満ちた顔つき。公園で初めて話したときとは、まったく異なる爺さんがそこにいた。白髪とひげをきれいに整え、まるで旧陸軍のお偉方を彷彿とさ せる顔つきと、そのキリッと正した姿勢、あのときの爺さんとはまるで別人であった。そして参列者はというと、淳に対してというよりはむしろ爺さんに挨拶を しに来ている感じだった。

「この度は、御愁傷様です」
 黒塗りの車で駆けつけたこの紳士は、敬之もよく知っている人物だ。
 敬之の所属していた美術団体の理事長、近藤正治。退会してしまった現在では、特には気にはならないものの、日本の洋画界の重鎮だ。一号当たり百万前後で取引されており、生きている画家の中では破格の値だろう。この団体にこの人ありと言っていい、逆に言うと近藤でもっている美術団体なのだ。近年の若者の公募展離れからか、消滅していく美術団体、このような人気画家を持つ団体にとって貴重な存在であるとともに、そういう団体はその人間に自然に支配されてしまうという弱点があった。
 敬之の絵も、この近藤の絵とどこか共通している感じの絵なのだ。近藤に同調するかのような絵だけが入選し、そしてある程度、信用できる人間に賞を与えるという、いわば、「踏み絵」代わりの「絵」なのだ。
 そしてそのような「気味の悪さ」も、敬之のこの美術団体を辞めた理由の一つだった。

「あれっ、君はたしか」
 近藤が敬之に気づいたようだ。
「そういえば、君はこの前、うちの団体を退会してしまったみたいだが……」
「はい、別の道をと思いまして」
「そうか、残念だな。また描きたくなったらいつでも」
 そう言うとその場を去っていった。

「この度は――」
 敬之は、爺さんいや淳の父親と思われる人物に挨拶した。
「おおっ、君か、君が敬之君だったとはの」
「淳からいろいろと聞いてたんじゃが」
 爺さんとはまったく異なるキリッとした淳の父親がいた。
 そのあと淳の父親と少し話をした。淳の生い立ち、小さい頃の話、そして最近の仕事の話、爺さんは目に涙を浮かべていた。どことなく怒りにも混じった感情を含んでいた感があった。

 淳の実の母親は既に亡くなっているらしかった。それもここ最近のことで、淳はそれでだいぶ落ち込んでいたらしいのだ。あれだけ明るかった淳にそのような事情があったなんてまったくわからなかった。
 そして爺さんから少し離れたところに、淳の彼女らしき女性、亜紀がいた。以前、展覧会で淳と一緒に絵を見に来ていたときに会ったことがあった。すでに目の周りの化粧が剥げ落ちるぐらい涙を流していた。
「うっ、うっ……」
 敬之の顔を見ると、すがるようにして言った。
「あっ、あつし は」
「あっあの、父親に殺されたのよ、あいつに」
 その目は悲しさと怒りに満ちていた。敬之は、亜紀の肩から腕にかけて、さするようにしてなだめた。

 敬之は裕子のアパートに帰ると一人で考えた。
 淳の父親はあの爺さんだった。あの参列者の顔ぶれからして、美術界ではかなり権威のある存在らしい。そして淳の実の母親はすでに死んでおり、そのころから淳は描画を主とした生活から会社勤めに切り替えた。父親は同じ頃に現在の母親と再婚した。そして最近になって淳は何かに悩み、そして殺された。亜紀は淳は父親に殺されたのだと言っている。葬儀に参列していた美術界の重鎮ともいうべき面々、美術団体のスター的な存在である近藤正治もいた。
 敬之はなんとなくその「きな臭さ」を感じ取っていた。

 しばらくして敬之は、葬儀のときに泣きじゃくっていた亜紀の住んでいるアパートを訪ねた。
「淳、言ってたのよ、おれの親父は芸術なんてわかっちゃいないって、あいつにこの業界を支配されてたまるかって」
「お母さまが亡くなってから、淳、変わったわ」
「そして、殺された」
「ええ……でも、淳はそんな、殺されるようなことする人間じゃないわ。きっと、あいつよ、あの――」
 亜紀は顔を両手で覆い、泣き崩れた。

 敬之は淳の父親がどういった経歴をもつ人物なのかを調べた。どう考えても只者ではないからだ。まずその年の美術年鑑を調べた。が、淳の名前はあるものの、同じ苗字の父親らしき人物の名がない。掲載していないだけなのか、それとも画名か何かを使っているのだろうか?
 そういえば淳が以前、こんなことを言っていた記憶がある。
「おれの親父は役人だったから、絵のことなんてまったく判んないんだ」
 そう、確か絵のことで父親にいろいろと言われたとかで、愚痴をこぼしていたことがあった。
「美術と役人ね、繋がりがあるとすれば、そうだな……文化庁ぐらいか?」
 敬之は半信半疑で、近くの図書館にて「職員録」を調べてみた。
 淳の苗字である「新川」。
『新川栄一郎』
 文部科学省 国立芸術センター 理事、という肩書きになっている。確かに文化庁と文部科学省なら関係は深い、というより同じだ。
 ふーむ、あの爺さんがねえー、が、だからといって息子を死にまで追いやるような何かをやっているような感じではない。むしろ健全な組織の偉い理事といった感じだが――。 
 ただ息子の葬儀にあれだけの顔ぶれの参列者だ、何かとてつもない力を持った爺さんにちがいない、敬之はそんな気がしていた。

 そしてある日。
 一通の手紙が招待券とともに届いた、その中身はというと、
「この度は、ますますご活躍のことと存じます。さて近々開館される予定の『新都市美術館』におきましては、開館記念の展覧会を開催したくここにお知らせ致します。またこの展覧会と同時に、新川栄一郎(国立芸術センター理事)が、同館長に就任することとなりましたので、開館記念と着任祝いを兼ねた催しを開催いたし――」
 新しく開館される新都市美術館の事務所からの手紙だ。所属していた美術団体の住所録でも見て送ってきたのだろうか。

 数日後。
 送られてきた招待券を手に、敬之は新都市美術館の前に立っていた。新しく建てられた美術館の周りでは、一般の来客者たちが何やら立ち話をしている。
 そして一階のロビーらしき空間にその人物はいた。
 新川栄一郎。
 淳の葬儀のときと同じく、きりっとした風貌に厳しい目つきをしている。きれいに整えられた白髪と髭のつやは、その貫禄をいっそう際立たせている。少し前を見据えながら、次々と挨拶をしに来る来館者を出迎えている。
「おー、来たのか、君も」
「はい」
 敬之はそれだけ言うと、招待券を係員に手渡した。署名を済ませてから、館内の奥へと移動した。荘厳なそして巨大ともいえるその内観を見物しながら、展覧会をゆっくりと観賞した。
 さまざまな団体の画家の絵が並んでいた。絵を描くという熱意と興味は薄れつつあったけれど、何か懐かしい思いが敬之の中に湧きあがっていた。団体に属していた時にはさほど好きでもなかった画家の絵も、こうやって別の立場で見るとまた違った感覚で観賞できた。なかなかいいもんだなあと。
 
 そして一枚の絵の前で、敬之は棒立ちになった。
 タイトルは『家族の肖像』。
 作家名には『故新川淳』とある。
 淳の遺作となったこの作品、他の作品よりも比較的に小さい50号の油彩画だ。
 キャンバスを縦に使い、しっとりとした色調で家族を描いた、淳の得意とした具象系の作品である。記念撮影代わりに描かれたような、そんな感じにも受け取れる油絵だった。詳しく見てみると、年老いた父親らしき老人、そして少し若作りしたような感じのその妻らしき女性。椅子に腰掛けて微笑んでいるそれら二人の肩に、後ろから静かに手を添えている若い二人。
 一人は淳本人に間違いない、そして前に座っている老人は、父親である新川栄一郎だ。ということは、その隣でやさしく微笑むのは淳の実の母親なのだろう。

 そして淳の隣の人物。
 その人物の顔を見た敬之は、寒気を覚えた。
 こっ、これは――。
 淳の隣に描かれた女性は、当然、淳が長年付き合っていた亜紀だろうと思っていた。しかし、よく見てみると、彼女とは異なる女性だということが分かった。

――淳の最もよく知る女性、裕子だ!
 淳は具象画を好んで描いており、そしてみっちりと写真のような絵が得意であった。その技術は写真かと思えるほど、いやどちらかというと写真以上の遠近的な油絵特有の空間をキャンパス内に作り出していた。あの淳が冗談でもこんな絵を描くはずがない。

 詳しく知りたかった敬之は、入り口付近に座っている事務員に尋ねた。
「あっ、あのう、亡くなられた新川淳氏の作品なんですけど」
「あー、あの作品ですか、あれは新川さんの御生前のご希望で飾らせて頂いております」

 淳自身の希望でここに飾られているということなのか。ということは、単なるいたずらなどではない、本人からの何かしらのメッセージかもしれない。この絵 が搬入された時期に殺されたのだ、何か訳があってこの絵を描いたとしか思えない。冗談でも敬之の彼女である裕子を、自分の家族の肖像画の中に入れるかどう か。
 それとも他に何か秘密でもあるのだろうか?

 アパートに帰ると、早速、裕子に尋ねた。
「何で、私なの?」
 裕子は首を傾げるばかりだ。本当に何も知らないらしい。
 淳と裕子の面識はほとんど無いといっていい。以前に、敬之と裕子そして淳の3人で、箱根まで旅行に行ったのが、数少ない淳と裕子が会ったことのある日。その時ぐらいしか、淳と裕子の接点はないのだ。
 家族、肖像……。
 写真。
 敬之は、ふと、3人で箱根に行った時に撮った写真を思い出した。
 そういえば――。
 敬之は、何かを思い出したように襖を開け、奥にあったダンボール箱から古いアルバムを取り出した。そして一枚の写真を探し当てた。

「これだ!」
 箱根のとある旅館の中で撮影された写真。淳のカメラで、旅館の従業員に撮ってもらった記憶がある。余分に焼き回しして、淳が敬之に送ってくれた写真だ、淳も持っているはず。写真の中の裕子は、あの「家族の肖像」というタイトルの絵の中の裕子そのものだ。
「なるほど、これをそのまま描いたんだ」
 あの絵に何らかの「意味」が込められているとすると、それを誰かに伝えておきたかった、その意味を理解できるだけかに――おそらく自分だ。
 そして万が一、淳が殺された場合に、そのメッセージが伝わるように手配しておいた。しかしこの写真の裕子を自分の家族の一員として描いた、なぜ?
 何か隠されているはずだ、何かが――。


3

 そのまま、数週間が過ぎた。
 新都市美術館での展覧会の会期が終わりを迎えようとしていた。

「何なのよ、これは!」
 亜紀が、「家族の肖像」の前でわめき散らしていた。
「この女は何なのよ、ちょっと!」
 絵の保守のため、係員に取り押さえられた彼女は、怒りが収まらずに叫び続けていた。無理はない、死んでしまったが、それまで長いこと付き合ってきた彼氏と、その家族と一緒に描かれていた女性が知らない女なのだ、自分が描かれていてもおかしくない場所なのに――。

「何で、わ・た・し なの?」
「おかげでいろんな人から疑われてるわよ」
 裕子はあの絵が発表されて以来、相当に機嫌が悪い。ただでさえ、絵を毛嫌いしていたのだ、自分と同棲している彼氏の友人が描いた絵の中に、こともあろうに自分が描かれていたのだから気味が悪い。それに亜紀からもかなり疑われている。
 敬之にも、淳の意図がさっぱり判らなかった。
 なんのために?
 そしてどんな意味があるというのだ、あの「家族の肖像」に。

 裕子があの中に描かれているのは、どう考えても不自然だと思っていた敬之は、展覧会の会期が終了すると同時に、あの絵を引き取らせてもらった。そして同棲している裕子のアパートにその絵を持ち込んだ。
 50号とはいえ、狭いアパートの中ではかなり大きく感じる。
「なんかすごいわね、こうしてみると」
 自分の肖像画を初めてみた裕子は唸った。
「家族の肖像 新川淳」
 キャンバスの裏側に、黒い絵の具でかなり大きく書いてある。

 ようく見てみると、裕子の描かれてある部分だけ別の写真を見て描いたということが分かった。裕子以外の部分はそれとはまた別の写真から描いたものらしかった。なぜなら、微妙にその大きさが異なっているのだ。淳と裕子、となりに立っているにも拘らず、その顔の大きさは裕子のほうが大きい。同じ写真から起こしたとなると、隣どうしであればその縮尺を同じように調整できるはずだ。でもこの絵の場合には、別々に描いたとしか思えないような僅かな縮尺のズレがあった。
 あれだけ写実にこだわっていた淳が、いくら写真をもとに描いているとはいえ、このような絵を描くだろうか。

 静物画などを描く際に、わざと遠近的に見せるために、例えば影などを実際の形とは異なる描き方をする。幾何学的な考察から試行錯誤の末、最も絵らしい「絵」を探し出すために。
 しかしなからこの絵はそのような構図や位置を意図したものではない。明らかにあえてそのバランスを崩して描いている。そういった絵になる「絵」ではなく、わざと絵にならない「絵」を、だれかに気づかせるために描いていような、そんな感じにとれた。
 わざと裕子を描いたんだ。
 裕子を知る人間にしか判らないように。
 そこに淳の彼女である亜紀を描いたとしたら、敬之は、淳と亜紀そして淳の両親の幸せそうな「絵」としか思わなかっただろう、そしてまったく気にもとめなかっただろう。
 淳が理想としていた『家族の肖像』となっていたはずだ。
 そこに実際に誰が写っているかは判らないが、あえて裕子をそこに配置したのだ。
 裕子を知っている敬之は、どう考えてもおかしいと考えた、淳がソレを期待していたかのように。

 敬之は「家族の肖像」の元となった写真を入手するために、淳の実家に向かった。
「すみません」
「はーい」
 淳の葬儀に参列していた、現在の新川栄一郎の妻と思われる女性が出てきた。
「淳君の親友で二宮と申します」
「あっ、その節はどうも」
 その女性は敬之のことを覚えていたらしく、深々と頭を下げた。
「実はこの絵によく似た写真を、生前に淳君が持っていたかどうかを知りたいんですけれども」
 敬之は失礼のないように丁寧に説明した。
「えーと、ちょっと失礼します」
 女性は、油絵の写ったその写真を手にとった。
「こういう写真でしたら、古いアルバムの中におそらく」
 そう言うと家の中に一旦入っていき、しばらくして一冊のアルバムを手に持って出てきた。
「主人の前の奥様との思い出の写真ですの。私はあまり拝見しておりませんが」
 敬之にそのアルバムを手渡した。
「では、失礼して」
 敬之は初めから一ページずつ開いていった。
 淳の小さいころの写真、実の母親と父親である新川栄一郎が両隣で楽しそうに笑っている。美術大学に通っていたころの写真、亜紀との写真が続いていた。
 そして、一枚の見覚えのある写真。
 あの絵と同じだ!
 淳のご両親が椅子に腰掛けて微笑んでいる。
 後ろには、淳と近藤の姿があった。近藤正治、敬之の所属していた美術団体の理事長。淳の肩に手を乗せて微笑んでいる。
 
 近藤か――。
 敬之は、淳の葬儀に参列していた近藤の姿を思い出していた。

 新川栄一郎。東京大学を卒業して文部省に入省し、ある程度の地位まで登りつめた栄一郎は、省庁再編とともに文部科学省の組織内外への人脈も生かせた。縦割り行政とはいえ、他の各省庁との人事交流もあったからだ。新都市美術館の建設にあたり、財政難にあえぐ国の予算から、赤字覚悟の美術館建設にはそれなりの説得できる見通しがなくてはならなかった。そのためには文化庁を納得させられるだけのソフト面からの力、そう近藤正治の力が必要だった。そもそも新都市美術館の設置委員会の委員もつとめていた近藤にとって、美術館の必要性をアピールするのはそう難しいことではなかった。

 近藤正治は、低迷している日本の美術界と公募団体に一人奮闘していたにもかかわらず、不透明なこの業界に何かを模索していたのだ。そのときに不倫相手だった淳の実の母親の旦那が、文部科学省の官僚出身で文化庁に力のあることを知った。そしてその権威を利用して、新しい美術館の建設を推奨してもらうようにと画策した。
 少子化による学生数の低減、そして若者の公募展離れ、その上この新都市美術館の話が実現されなければ、公募団体の存続も危ういと感じていた近藤は、どうしても栄一郎の力を必要としていたのだ。

 栄一郎と現在の妻とはそもそも不倫の仲だった。前妻つまり淳の実の母親と、当時不倫していたのが近藤なのだ。そして最近になっての淳の実母の不自然な死。確証はないが、あやしいと感じていた近藤は、栄一郎の周辺をいろいろと調査した。その噂を大学の教授だったときの教え子でもある淳に吹き込んだのだ。
 淳は母親を殺したのは父親である栄一郎と思い込んだ、それは恩師でもあった近藤の言葉を信用したからだ。栄一郎が不倫相手との新しい生活を期待し、一方では実の母親と、その子供である自分は邪魔者なのだと淳は勘違いした。そしてある日、父親に詰め寄った、母親を殺したのは栄一郎じゃないかと。
 実際には栄一郎は淳の実母を殺してはいなかった。ただその病状を悪化させた要因の一つが不倫だったようだ。
 不審に思った栄一郎は、自分の息子に誰かが変なことを吹き込んでいるのではと思い、淳から近藤のことを聞き出した、そして憤慨した。

 その後、栄一郎は近藤の美術館建設推進のサポート役を断った。新都市美術館が建設されたとしても、近藤が理事長を務める美術団体、及び近藤個人の利益に 絡む組織には、その利用を一切許可しないという方針を伝えたのだ。館長就任が内定していた栄一郎には、その権限があった。
 美術館の設置委員会の委員も務め、日本国内のほとんどの美術団体の支援者からも期待されていた近藤、このままではその立場も危ういと感じた近藤は、さらに栄一郎につめよっていた。

 淳は実の母親を亡くし、どちらかというと躁鬱に近い状態が続いていた。父親の栄一郎への不信感もあり、どうしても実母の死の真相が知りたかった。そしてかつての恩師でもあり、実母のことも知っている近藤のところに行き、実母の昔のことについて尋ねた。
 近藤は栄一郎のことを卑怯な人間だと、その苛立ちに満ちた感情を淳にぶつけた。そして実の母親の不倫相手が目の前にいる近藤だということを、淳はその時はじめて知ったのだ。動揺した淳は、今までの近藤に対する信頼や尊敬といった感情が崩れ、代わりに憎悪という別の感情が湧いてきた。

 近藤も一人の男としてのプライドからか、それまでの淳に対する態度を一変させ、不倫関係にあった淳の実母との淫らな生活を暴露した。卑猥な言葉で母親のことを罵られた淳は、近藤に怒りと嫉妬にも似た感情を覚えた。

 数日後に事件は起きた。もつれ合った末に近藤が淳を殺してしまった。いやその時は何かの角で頭を打ち、気絶していただけかもしれなかった。淳が死んでしまったと勘違いした近藤は、淳を車に乗せ埠頭まで連れて行き、自殺に見せかけるため淳を乗せたAT車を海に突っ込ませた。
 気を失っていた淳はそのまま死んだ。

 近藤はその後、自分のしたことの重大さに気付いた。
 新川栄一郎の息子を殺してしまったのだ。そのことがばれては美術館どころではない、いやこれまで築き上げてきたものを全て失ってしまう。
 そして考えた。
 自分は何事もなかったかのようにして、これ以上は栄一郎とは争わない。
 互いの利益のためにも新都市美術館を建てることを優先させようと。

 美術館建設の実権を握っていた新川栄一郎、その前妻であり淳の実の母親、そして美術界の権威とも言うべき存在であった近藤正治、この3人の不倫が発端だった。淳がその犠牲となり死んだ。
 近藤はしばらくして逮捕された。

 展覧会の会期が終了した。
 館長である新川栄一郎の提言により、淳の描いた『家族の肖像』は、そのまま新都市美術館の、とある一室に飾られていた。それは、敬之によってこのような構成に描き直されたものだった。

  (亜紀)      (淳)
  (新川栄一郎) (淳の実の母親)

 幸せそうに微笑んだ『家族の肖像』、
 淳の理想とした家族の風景がそこにあった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?