その気持ちを語る代わりはいない
疑問に思うことがある。
本当に人の代わりは簡単につとまるのだろうかと。
何年かキャリアのある人は、業務上の引き継ぎを経験したことがあると思う。
業務の担当を引き継ぐときには、こと細かに仕事の内容や進めかたなど、関係する人の詳細を教えられる。
ただ、どれだけ完璧な引き続きができても、あえて使うけど「絶対」に引き継げないものがある。
人どうしのつながりだ。
どれだけ仕事を完璧にこなしても人の関係性までは引き継げない。
それだけはゼロから始まる。
ぼくは会社員からフリーランスとなりライターを名乗っている。文章を書くお仕事をしている人なら、一度は考えたことがあるかもしれない。
これだけテクノロジーが進化し色んなことが合理化、効率化されていくのであれば、文章はAIが書いてくれるようになるのでは?と。
今朝、鶴田さんのエッセイを読んだ。
人が書かなくても、目的に合わせて整った文章を書ける存在が登場するかもしれない。
……するかもしれない、という言い方は適切じゃないな。今日、登場しつつあるという内容のツイートを見てヒヤッとした。
同時に、文章を書くことを仕事としているライターはどうなるんだろう。
目的に合わせて整った文章を書く存在。
これはAIに限らず、人同士でもそうかもしれない。
ライターという仕事をしている人は、いくらでもいる。コロナ禍の影響でWebライターの仕事をする人も増えたというし、自分よりも「目的に合わせて整った文章を書く存在」はすでにたくさんいる。
鶴田さんはエッセイの中で、「その人だけのもの」「書き手の温度を感じられる文章を」と言われていた。ぼくもそれが必要だと思う。
書き手の温度が感じられる文章というのは、誰かのためを思って書いた文章ではなく、自分の書きたいことや伝えたいことをこめた文章かなと思っている。
鶴田さんのエッセイに温度を感じる。どう表現するのが適切かわからないけど、読んでいてすぐ隣にいるような感覚というのだろうか。とにかく「近い」という感覚がぼくが思う体温。
ではこのエッセイを一語一句、わかりやすく言えばコピペして別の人が投稿していたらどうだろうか。僕は同じく体温を感じるだろうか。
きっと感じない。
文章の内容は同じだから、共感したり、この文章をきっかけに興味を持ち始めるかもしれない。だけど引き継ぎの話のように、コピペした別の誰かとは何の関係性もないのだから、その人の体温を知るところから始まるからだ。
前置きがとても長くなったけど、書き初めの疑問に対する答えは「代わりはつとまわらない」だ。
AIだろうと、どれだけ著名な人だろうと、関係性の代わりは絶対にできない。だから文章に限らずだけど、人の代わりをつとめるというのは表面上はできても中身までは不可能だというのがぼくの持論だ。
それをぼくや鶴田さんはライターという文章を書く仕事で表現する。
文章には書き手がいて読み手がいる。発信するだけなら、コピペすればその人とまったく同じ内容の作品が出来上がる。だけどそれを読む人は、誰が発信しているかによって捉えかたが全く違う。
ぼくのエッセイはぼくしか書けない。
鶴田さんのエッセイも鶴田さんにしか書けない。
そして大事なことはその先。
いくら感情論をいっても、じゃあ仕事として成立するの?と聞かれたら、これだけじゃだめだ。
ここまでのことに加えて、「その人のものだから欲しい」という状況を自分でつくらなきゃいけない。
作りかたは人それぞれ。
書きかたのセオリーを無視して個性を出す人。
文章+トークで人間性を出す人。
文章+絵で絵本を作る人。
ファンをつくって自分を応援してくれる人をつくる人。
どれが正解かは人によるけど、自分の体温を求めてくれる人にとって自分の代わりになるものはない。
ぼくは文章が好き。人を応援するのが好き。そして自分が好き。
好きなことだけして生きていたい超わがまま人間だから、好きなものを正当化する方法を考えてしまうのかもしれない。
だけど本当に思う。
人の代わりは簡単にはつとまらないって。
鶴田さんがエッセイを書いたから、ぼくはこのエッセイを書きたくなった。
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