見出し画像

モンターニュのつぶやき「母は蛍になったんだなあ」 [令和3年5月25日]

[執筆日 : 令和3年5月25日]

 今日は、もう夏のような陽気で、最高温度が28度の東京ですが、昨日、以前申請してあったマイナンバーカードの引取のために、区役所に行っておりました。そこそこ大きな10階建ての建物で、エレベーターが2機あるのですが、区役所の職員も使うし、来訪者も使うので、どうも具合がよくありません。乗るまで随分と時間がかかりました。もう少し動線を考えた使用法にしたらと思いますが、まあ、お役者ですから、しょうがないといえばしょうがない。引取には、10分もかからなかったけれども、パスワードが2つ必要で、こういうのは高齢者には面倒でしょうね。本人確認のための書類はパスポートを持って行ったのですが、これは二人係で確認していました。この辺は慎重で、複数の人の眼で確認する作業は、他の仕事でも大切でしょう。しかしながら、こうした作業を脇で見ていて、仕事がどんどんと機械化されていって、そのうちに頭を使う仕事が無くなるんだろうなあと。
 以前、養老孟司さんの本でもつぶやきましたが、仕事には、2種類あって、目の前の対象の動き、変化に応じて行う、対処療法的な受動的な仕事、そして対象が変化しない変わりに、仕事の内容を自ら決めて行う自動的で自律的な仕事があります。前者は、昨今では極普通に見られる仕事で、政治家の仕事もそうですし、外交官も含め公務員は勿論で、医師、弁護士、学校の先生、サービス業等々、自分で仕事を敢えて見つけなくても、向こうから仕事がやってくる、そういう仕事。
 自分で仕事の中身を考えてやるのは、学問では、解剖学とか、考古学、歴史学、そして、芸術一般があります。その中間的というか、両方を跨ぐのは、哲学、思想、文学でしょうか。科学(物理、化学)や数学もそうかもしれません。お百姓さんの仕事もそうですね。
 受動的であれ、自律的であれ、立派な仕事をする人に共通なことは、対象と一体化する経験を持つということでしょう。サービス業であれば、相手の気持ちになって考えて対応するという、主観的であると同時に客観的であるという経験が。こういう経験の有無がとても大きいようで、西田幾多郎は「純粋経験」と呼んでいて、小林秀雄は、主観と客観の未分化状態と言っています。対象(客体)になり切る、つまり模倣するということでもあります。

ゴルフでは、自分の技量を、そして意思を伝えるのはクラブです。ですから、上手になるには、クラブのこと、そして意思が最終的に乗り移るボールのことをよく知らないといけない訳です。ゴルファーは、従って、まずクラブになり切る、そしてボールになり切ることが不可欠で、打つ前に、ゴルファーはボールになって飛翔し、目的地に着地する姿をイメージできないといけない訳です。こういうイメージを抱くことが出来たら、後は簡単です。主体であるゴルファーは躊躇することなく、自らの分身でもあるクラブを振るだけですから。
 話がどうも、ゴルフに脱線しがちなのは、私の場合、主観(私)と客観(ゴルフ)が常にセットになっていて、主客合一どころか、切り離せなくなっているようで、これはこれで良いのか悪いのかわかりませんが、お陰で、今日のゴルフの練習、そうした気持ちが結果に表れているような気がしました。 

 少し話題を変えましょうか。日本の大手企業のトップがオリンピック開催に異議を唱えたり、国連のトップが戦争状態の中でのオリンピックに警鐘を鳴らすなど、国際オリンピック委員会と日本の立場の違いが鮮明化している訳ですが、戦時下でもオリンピックをやるというのは、かつての西欧の日本と同盟を結んでいたお国のオリンピック開催にも似ているような感じもして嫌ですねえ。ワクチンを打たない日本人ボランティアが海外の選手にコロナを感染させるリスクもあるという論調もあり、ワクチン接種の遅れが、諸悪の根源のようになっています。それはそうでしょう。ワクチン接種に限れば、これは政府の対応が不味いということ。他方で、水際の作戦でもある市民の協力に依存する感染予防対策や、法的強制を伴う緊急事態宣言や蔓延防止法といった施策が功を奏したかと言えば、これも大成功とは言えないので、やはり政府、地方行政の対応の不味さがあったと言わざるを得ないでしょう。

 小林秀雄という人から色々なことを教えられるのですが、彼が世界(現実)をどのように見ていたのか、そしてどんなことを考えていたのかということを、中野剛志さんの本も参考にして、私なりに要約すると、大体以下のようになります。

なお、これは私の推測で、小林秀雄自身は語っていないと思いますので、間違いかもしれませんが、彼の職業観というのは、父親の影響が少なからずあるように思うのです。ダイヤモンドの加工・精練の第一人者的であった父親の如何にしてダイヤモンドを削るか、磨くかという、技量に関わる面が。小林秀雄は技能職人を卑下してはおらず、寧ろ高く評価しており、そうした技能的要素が彼の文章表現にも表れているのではないかと思うのです。
 また、人生観、死生観、そして歴史観には、母親との繋がりがあるでしょう。彼の「人生について」の「感想」に書かれていることですが、終戦の翌年に亡くなった母親に対する悲しみのことしか当時は関心がなかったようで、戦争そのものには不感症になっていたようです。母が亡くなった数日後に、蝋燭を買いに行こうとして、路上で大きな蛍を見て、母は蛍になったんだと思ったと。
 私たちのお腹にある臍は、かつて母親と繋がっていたことを物語る「遺品」でありますが、小林秀雄は歴史とは、子どもを失った母親の経験のようなものだと言います。歴史とは永遠に過ぎ去ったものを思い出すことで、それは母親が永遠に戻っては来ない子を思い出すことと同じだということであります。永遠に戻ってくることのない時間である今を、どう生きるのか、それが人生でありましょう。
 なお、小林秀雄は政治に関しては、マキアヴェリの本は熟読していたようで、人間の対応能力を越えた新しい出来事には、人間は必ず失敗するという悲劇性は、第二次世界大戦にも適用されるという意味で、日本にとって第二次世界大戦は初めから悲劇であったと思っていたようですね。なんだか、ピンと来るでしょう。つまり、今回のコロナ禍対策も失敗してきた訳で、それが人間の持つ悲劇性の1つですが、日本の最大の悲劇は何かと私が思うのは、日本が得意なモノマネ、模倣をしなかったこと。何でも模倣できた日本が何故、他国のようなロックダウンやワクチン接種をいち早くしなかったのかと考えると、為政者側に、「日本方式」に対する誤った認識があったのではないか、日本の優れていることの本質とされる、日本の歴史の固有性を見誤ったからではないかと。小林秀雄という人は、死しても腐らずの人ですね。失礼しました。


1.現実というのは、複雑で、わからないものであり、そういう複雑で理解し難いものを言葉で説明しようとすると、畢竟言葉も複雑になってしまう、だから自分の言葉が分かりづらいという面はある。

2.政治は戦争と同じで、目的には手段を選ばないものであり、臨機応変に状況に対処する「技術」である。文化・思想は、目的のために手段を選ばないなどということはなく、時代や状況に変化されない普遍的「精神」である。

3.日本(人)の叡智とは何かといえば、(1)戦争という複雑で、かつ未知の事態に国民が団結して黙って処することで、(2)模倣から新たなものが生まれることを体得したこと。日本に無かった書き言葉のための漢字を中国から導入し、徹底的に模倣し、これ以上は模倣し得ない状態になったとき、表現しえないものがあること(日本語等に)を悟る経験をしながら、異質な文化を統一する際の日本人の「手法」を生み出したこと。こうした特性が日本の「歴史的個性」である。

4.そうした手法には、織田信長や宮本武蔵といった武将、剣豪の戦いにおける道具を如何に使うかという、実用主義というものの伝統があり、明治期には、福沢諭吉の実学ということにもなる、所謂プラグマティズムの流れがあること。そうした精神が生まれるには、主客合一という、主観と客観の未分化の経験をすること、西田幾多郎の「純粋経験」が必要であった。

5.自由というものは制約があって、初めて意味をなすものであること。自由には2つあって、1つは外(社会)から与えられた自由リバティー、もう1つは個人が自らを実現しようとする自由フリーダム。重要なのは後者のフリーダムで、これが福沢の言う「私立」である。政治は、他律的であるが、芸術は自律的であり、彫刻家が大理石に作品を作ろうとする際の、素材の制約という条件下で、如何にして彼の芸術を表現するかといった時の精神というのがフリーダムである。

6.政治は、ルール化であり、組織化であり、そして機械化であって、言葉を通じて他者と共有できる以上の行動の自由は許容されない、結果として人間性の喪失を導く。そうしたリバティー重視の政治よりも、個人の覚醒のためのフリーダムに賭けた芸術、文学、思想に関心が向く。


(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?