モンターニュの折々の言葉 354「歯車人生にサヨナラを」 [令和5年4月1日]

「C’est ici que se joue la difference entre la France et le Japon. LesFrancais veulent une deuxieme vie apres celle de travailleur, les Japonaisestiment que le travail fait partie integrante de leur unique vie. フランスと日本の違いの決め手はここ。フランス人は勤労者としての人生の後に第二の人生を欲している。日本人は仕事のことを、かけがいのない自分の人生の不可欠の要素だと考えている。」

仏文:Karyn Nishiyama 邦訳:深川聡子(白水社「ふらんす」4月号から)

 どうもいけません、鼻水が止まりません。今年は花粉症が例年よりも強く出ているようで、花粉が多く空中を舞っているということなのか、それとも、単に私の免疫力がおちてきたから、そうなのかはわかりませんが、あ!また、ぽたりと。桜の花が散って、川面に浮かんでいる情景は風流ではありますが、はなははなでも水の鼻は風情はありません。

 さて、4月になりました。今日はエープリル・フールですから、何を言っても怒られません(笑い)。フランスではポワソン・ダヴゥリルpoisson d’avril、4月の魚ですな。4月の予定を手帳で眺めると、ゴルフの予定が2回、会食が6回。これだけで、もう懐が空っぽになりそう。5月は道産子のように、他人の、つまりは家族の貯金を宛にして生活するしかないかと(苦笑)。物価高は続くよ果てしなく、という感じで、年金生活者は大変ですね。

 ところで、昨日、3月31日付けで外務省を退職した同期が5,6人いましたが、同期で外務省に居残っている者が5名。首レースではありませんが、閣下となって、他の同期よりも長く現役生活を続けている、マラソンで言えば、脱落しないで、42,195キロのテープを切るために、今も走り続けている一流のアスリートというのが、現時点で現役を続けている同期ということになります。こうした言わば、勝ち組的な同期の方々のことは、あまり心配はしていない。如何に社会的に勝てるのかを知っているので、退職後もなんとかなるだろうと思うのです。

 他方で、63歳で今年退職した同期は、こちらは色合いも様々で、心に鬱積したものを抱えながら、無念の念を抱いて、役所から放り出されたと思っている同期もいないわけではないのではないかと。

 しかし、この退職をあまり深刻に考える必要はないのではないかと。人生100年とも言われる令和の時代、退職は長い人生の一つの通過点でしかないでしょう。少し目先というか、見方を変えてお話すると、先般のWBCで活躍した、大谷選手、あるいは、ヌートバー選手、または吉田選手もそうですが、例えば、高校野球をやっているときに、彼らは所謂完全燃焼をしていないのですね。イチロー選手もそうでした。秋田県出身では、落合博満選手もそう。高校時代に燃焼しつくした選手がプロで長く活躍できたケースは極めて稀です。王貞治選手はピッチャーから打者になって、大成しました。ある仕事を、あるポジションでずっと活躍できる人は稀なことで、時間の推移、身体の変化等に応じて、人は変わらないといけないわけです。

 会社勤務、あるいは役所勤務時代にはぱっとしなかった人でも、退職後は、おっと驚く為五郎的に変貌して、活躍している人もいないわけではない。世知辛い世の中でありますから、退職後も何らかの仕事をして稼がないといけないのが多くの退職者でありましょう。どんな仕事をして稼ぐか。前職に似たような仕事が見つかる人は、幸運かなと。多くは、前職とは関係のない、自分の持っている能力やスキルとは無関係な仕事をしながら、ああでもないこうでもないと、時には愚痴もでるのが退職後の人生。

 同期の中には、65歳にならない者では、再任用の形で引き続き外務省に雇用されている人もいますが、お手当は想像するに、月30万円程ではないかなと。その30万円のために働いていると思うと寂しくなりますが、日本のため、日本国民のために働いているのですと、胸を張って、自らの状況を誇れるかどうかはわかりません。

 人の才能というか能力は千差万別ですが、人を上手く使いこなせる才能というのもあって、あるいは、人に上手く使える才能もあってですね、こういう才能を持っている人は組織に向くでしょうな。豊臣秀吉型というか。他方、人を支配しながら、人を器としてある目的のために活用する才能に優れていたのは織田信長でしょうか。こういう人は、組織の幹部に向いているでしょう。尤も、信長が管理能力が高かったら、明智光秀に寝首をかかれることはなかったかもしれませんが。個人の能力、才能ということでは目立ったものはないけれども、我慢強いという、耐える能力が半端でなく、そして、いざというときには、力を発揮するタイプの人間は、徳川家康型でしょうか。この家康型が言わば日本でのリーダーのモデルとして今も尊重されております。

 こうした組織のトップに立つようなタイプとは違って、所謂参謀的で、冷静で知的なタイプも組織では不可欠ですが、これはそうした参謀を使いこなせるだけの能力があるトップがいて、初めて生きる訳で、そうしたトップが不在の組織では、活路は見いだせないでしょう。敢えて、誰とは申しませんが。

 トップにもなれない、参謀にもなれない労働者は、組織のルアージュrouage、歯車になって生きるしかありません。小さな歯車か、大きな歯車かの違いはあるでしょうが、所詮は歯車です。日本人の多くは、保育園時代から、立派な歯車人間になるために、教え込まれる訳です。世にあるハウツー本は、そうした本。歯車であっても、個性的に自分らしく生きるための本。ほんまかいなと思います。

 歯車人生が合わない人も当然いて、そういう人は日本社会では息苦しい。アメリカやカナダ、あるいは、フランス、更にはアジア、太平洋、アフリカに移住するのでしょう。歯車人生で終わるのが嫌だ、と思って別の世界に飛び立つのも一案です。しかし、別の世界とは言っても、どこもかしこも似たようなもの。自分で何かを企業しない限りは、いつまでたっても歯車で終わる可能性があります。役所の歯車人生では、なったことがないので実感はありませんが、大使閣下は確かに大使館ではトップではあっても、所詮は、日本という巨大な行政機構の一つの歯車でしょう。二年か三年でパーツを交換する機械と同様に、使用期限が終われば交代させられる訳ですから。

 末端の職員も、上にいる幹部も、機械かコンピュータの部品と同様に、使用期限があってですね、時間が来れば、はい、さようなら、であります。ですから、そんなに、歯車的労働者として終わる退職を深刻に考えることはないということ。誰にでも平等にやってくる、死と同じですから。いや、退職と死は同意語であるというのではありません。死後の世界を信じているかどうかで、死も怖くないのと同じで、退職以後の人生が新しい人生となる可能性があるということを信じているかどうかを問いたいだけであります。

 しかし、これはそんなに上手くは移行できない。長い間の歯車的な性質が染み付いていて、退職後もどこかで歯車に。歯車は、与えられた役割を実行するための道具。その道具がかってに、与えられた歯車の役割を変えるのは他の歯車に迷惑をかける訳で、日本で一番聞かれるのが「人に迷惑をかけてはいけない」。

 それでも、人に迷惑をかけないで、生きることができるような時間を人は欲していて、その時間を現役時代から既に持っている人は、多分、退職後も歯車的な時間を生きながらも、自分自身が指揮棒を使って奏でることができるような自律した時間を持って、それまでのイケイケドンドン的に輝かしい未来に向けて真っ直ぐに延びた直線的な線ではないけれども、新しい、質の異なる別の線を自ら描くことができるのではないだろうか。

 今日のまとめです。還暦や古希という節目、60歳と70歳ですが、退職年齢をこういう節目に合わせて行うというのも一案ではありますが、フランス人は働きながら死ぬのは嫌だと思っている、死ぬなら、例えばバカンス中に、片手にワインかシャンパングラスを持って、サングラス越しに、青い空、蒼い海を眺めながら、側には、若いビキニ姿の美女を侍らせて、僕は幸せだなあと思って、あの世に。日本人は、汗まみれ、泥まみれ、涙まみれになりながら、僕の人生は一体全体なんだったんだろうと思ってあの世に。

 日本人は、かけがいのない人生をかけがいのない仕事と同一視する傾向があります。ここが本質的な問題であって、そうなったのは、一つには、日本における教育の問題があって、特に、宗教教育がなされてこなかったことがあるでしょうし、そうしたことも含めての哲学を教えてこなかったことが大きな要因ではないのかなと。ですから、退職後に何をするかと言えば、お金を稼ぐことよりも、哲学を学ぶのが一番大事ということ。社会貢献な仕事も所詮は歯車人生の延長でしかない。哲学以外でやることと言えば、言葉の勉強である語学と読書、そして適度な身体運動としてのゴルフとランニング、あるいは徘徊ならぬ散歩でしょう。どうも失礼しました。


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