モンターニュの折々の言葉 386「年金生活者の名刺とは」 [令和5年5月6日]

 先日、憲法記念日を持つ国は先進国では日本くらいではないかと述べたら、流石現役の外交官、ポーランドには憲法記念の日があると知らせてくれた同期がおりました。ポーランド、色々と複雑な歴史を抱えた国ですね。かつては欧州の大国で、第二次世界大戦では、悲劇の舞台となった国。ポーランドは日本贔屓の人が多いとも聞きますが、類は類を呼ぶ、同類相憐れむ、そんな気もします。

 そう言えば、この同期は閣下ですから、私よりもすでに3年以上もバリバリで働いていて、ましてや在外の勤務であれば、懐事情も、そしてタンス預金もそれなりに膨れているとは思います。ですから、こういう人、所謂シャンパンを片手に、社交的な活動を展開している方には、コロナ禍の年金生活者の生活ぶり、もやしの値段も、納豆の値段もわからないでしょうね。ちなみに、今日は、4ヶ月ぶりに散髪屋に行ってきましたが、ここにも物価高は押し寄せていて、前回よりも200円も高くなっていたのです!コロナ禍後は、年金者にはとても辛い。

 現実感のない仕事をしていてもお金がもらえる人が幸いであるかどうか、その辺は微妙ですが、仕事が現実と思って額に汗して働いている人もいるでしょうし、あるいは仕事よりもゴルフが現実だと思って手に汗する人もいるでしょう。現実というのは、全て個人個人の現実であって、一般論は成り立たない。ですから、私が話す年金生活者としての生活はこんな風で、こんな苦労があるよ、でもこんな楽しいこともあるよという話も、あくまでも一つの例でしかない。

 前にも書いたように、60歳で退職した人でその後何も仕事をしない人の比率はかなり低いでしょうし、63歳、あるいは65歳で退職した人でも、相当の人が何かしらの仕事をしているでしょう。概ね70歳頃までは年金以外でお金を稼いでいるのではないかなと。

 問題というか、課題というか、そうした退職後の仕事をする場合、何の自己投資もしなくても稼ぐことが出来る仕事もあるのでしょうが、私の場合は、人に教えるという仕事でありますので、それなりに自己投資をしないと出来ない。自己投資というのは、具体的には、英語や数学の参考書や問題集を購入して、自ら学ぶということです。こうした、負荷をかけての研鑽的な行動が出来るのが、私的には幸せなことだと思っております。負荷をかけるのが好きというか。

 尤も入って来るお金は、役所時代と比べたら微々たるもので、一回のバイトではゴルフ代にもなりません。B級グルメ的な会食ならなんとか。役所時代なら、有給休暇を使って休んでゴルフをしても、月給が減額されることもなかったけれども、言わば日雇い労働者、時間給労働者になると、そう、体が資本。休めば休む程、実入りは少なく、でも、働けば働くほど、多くなる。単純そのもの。

 単純そのものではあるのですが、実際に仕事で使うかどうかわからないような知識を自己投資をして覚えておくというのは、言わば、いざ鎌倉的な発想かもしれません。貯金ももしかしたら、そういういざ鎌倉の時に必要になるお金で、例えば、高貴な方からお声がかかって、素敵なレストランに招待される時のために取っておく、あるいは、一張羅的な服を誂えるためにとか。別に高貴でなくても、私淑している著名人と会うような機会があって、その時のための「経費」として貯めておくとか。実際的には、そういうような機会はなく、むしろ貯金は日々の生活のためにいつしか底を付くようになる程度しかない訳ですが、ヒトは夢を見るからヒトであって、現役の方に、年金生活者となったらこうしたら良いというサジェッションはできませんが、夢を持ち続けるということと、その夢を実現するために、自己投資をしてですね、出来たら、私のように、アスリート的に、日々鍛錬できるだけの身体を作りなさいということなのかなと。

 自分でも、私の体は大したもんだなあと思う時があります。ほぼ毎日こうして折々の言葉を書くという手作業をし、少なくとも週4回は毎回1時間程走っていて、このゴールデンウィーク期間中は、英語の問題集を毎日1時間から2時間かけて解いているという身体能力に。加えて、フランス語講座のための参考文の作成のために模範例文を書き写す作業もして、そして、読みかけの本を読んで、いつの間にか寝てしまうという、この習慣から生まれている身体能力に。まあ、それでも、こうした事が習慣的にできるのは、せいぜい70歳頃までなんでしょうね。70歳からは、もっとやるべきことを制限的に選択して、残りの時間に出来るかもしれない夢を実現するための時間にするのでしょう。その時、果たして今と同じように、夢をみているのかどうなのかを、その時の自分を確かめたいとは思っていますが。

 今日のまとめです。昨晩、中村真一郎(1918-1997)の「随筆集 文学的散歩」(筑摩書房)を細目で眺めておりましたが、どこか、折々の言葉に似ている趣があって、親近感が湧いたのですが、しかし、よくよく眺めると、似て非なる文章。私の知らない日本の作家や、西欧のこちらも、名前すら見たことも、聞いたこともない作家や作品の紹介随筆。こういう作家がいたんだなあと、ため息が。多産家で、洒落た文体の作家のようですが、79歳で亡くなっております。司馬遼太郎さんは73歳であの世に逝っていますが、作家の場合、多産家はあまり長生きできないのかなあと。中村真一郎の楽しみというのは、どういうことだったのかと考えてしまいます。

 それから、もう一冊寝る前に手にしたのが、永藤武(1944-2000)さんの「小林秀雄の宗教的魂」(教文選書)。永藤さんは大学の先生だったようですが、56歳で亡くなっている。信心深い人ほど健康で長生きできるというデータがあるようです(池谷裕二「脳には妙なクセがある」)が、小林秀雄は80歳。永藤さんは56歳。人の寿命はわからないもので、それ故に、死というのは、一人一人違う、個人的な現実でありますが、この「小林秀雄の宗教的魂」の方に、どうも私は惹かれる人間のようであります。ちなみに、小林秀雄は、70歳を前にしてたばこを止め、健康のために毎週1回はゴルフをするという、ゴルフ場通いは亡くなる1年前まで続いたようですが、腎不全による尿毒症、呼吸循環不全であの世に。亡くなるまでの入院期間中は見舞客にはまったく会わず、ご夫人と長女、そして孫娘の3人に看取られての最後だったとか(荒俣宏「知識人99人の死に方」)。

 年金生活者というのは、肩書のない存在で、日本という肩書重視の社会においては、吹けば飛ぶような存在ではあります。なるべく飛ばされないようにしないといけません。世間の風は強く、そして冷たい。そういう風に抗して、前に進む為には、現役時代に自分の根っこを自覚してですね、その根っこを現役時代以上に太く、そして長く、たくましいものにしないといけない。公務員で、この人はいい顔をしているなあと思える人は、そういう根っこを現役時代において自覚しながら、それなりに日々努力していた人だと思いますね。かつてはそういう顔の人が多かったように思います。

 40過ぎたら自分の顔に責任を持てと言いましたが、今の40は折り返し地点にも達していない。ですから、そうですねえ、退職して年金生活者になったら、自分の顔に責任を持て、自分の身体に責任を持てということが、ささやかな私のサジェッションかなと。年金生活者にとっての名刺は、紙に書かれた肩書ではなく、「顔」と「身体」でありますから。

 どうも失礼しました。

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