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鍛冶屋の仕事 Vol.3|鍛冶屋の打つ道具。日本を日本たらしめるもの

 鉄を赤めてたたく。そうして作られた道具を当たり前のように使っていたのは、ほんの数世代前のことだった。

 どこの町にも1軒や2軒は鍛冶屋があって、例えば包丁を作らせたら○○鍛冶屋、農具をあつらえるなら○○鍛造工房と、鍛冶屋がしのぎを削りながら地域の人々の産業や生活を支えていたものだ。

 ――と、書いてはみたものの、昭和の晩期に生まれたぼくは、鍛冶屋が奏でる鎚音を聞いて育ったわけではない。ただただ、ぼくの住む町・兵庫県小野市の、そこで鍛冶屋を続ける先達に、その懐かしい時代の話を聞くだけである。

2000年の歴史がある鍛冶の仕事

 鉄器の誕生以来、その後の人類の歴史は鉄と共にあったといっても過言ではないだろう。

 2000年にわたる鉄器製造の技術は、ほとんど姿を変えることなく連綿と受け継がれてきた。材料になる鉄と鋼、それを赤めて成形するための炉、つち、金床、それに、刃をつけるための砥石やその他いくつか必要なものはあるが、なんとまぁ単純な道具があれば、刃物は作れてしまうのである(その気になれば、電気さえいらないよ)。

 人の手で作り出された鉄の道具は、鋼鉄という言葉がもつイメージとはおおよそかけ離れた、とても素朴なものである。もちろん触るとひんやりするのだけれど、なぜだろう、不思議と温かみを感じるのだ。手作りの刃物から生み出される家庭料理はまた、現代のそれとは違った味がするのだろうか。

上の2本がぼくの作品で、下は土佐の鍛冶屋があつらえたものだ。ナイフは”製品”を作れるようになったが、こうして見比べてみると、包丁は製品には程遠い。

斜陽産業

 かつて、家庭には手打ちの菜切りや出刃包丁が当たり前のようにあった。それが、鍛冶屋という職業が斜陽化に向かいはじめた高度成長期から、包丁は食材より冷凍食品や総菜のビニールを切るものとなった。あるいは、包丁のない家庭も今では珍しくもないだろう。

 日本国内における刃物製造・卸業者の登録件数は、2007年では2017件あったのに対し、2021年には1084件にまで減ってしまった(※1)。

 播州刃物の産地である小野市や三木市でも、廃業する鍛冶屋の話は耳にするものの、後継者が独立して新規就業した、という話は1件しか知らない。10年後、いや5年後も、はたして刃物の産地であり続けられるだろうか――。

 一方で、今なお鍛冶屋が細々と仕事を続けられていられるのは、ひとえに需要があるからである。

世界で認められる日本の刃物

 昨今は海外で日本製刃物の良さが認められ、日本製の台所用刃物の、中部5県からの2021年の輸出額は、61億円と過去最高を更新した(※2)。近隣の刃物制業者からも、国内より海外へ輸出する割合が多いと聞く。それに日本にだって、まだまだ手打ち刃物がなくなっては困る人がいるのである。

 日本の刃物の素晴らしさは世界が認めるところであり、鍛冶屋の打つ手打ち刃物は日本の文化のひとつである。このまま”日本を日本たらしめるもの”が、話題にもならず静かに失われてしまうのは、ぼくはとてもさみしい。

 縁あって播州刃物の産地に生まれ育ち、40代を目前に、ぼくはまた小野市へ帰ってきた。自分が鍛冶屋になるなんて夢にも思わなかったが、こうして肥後ナイフや手打ち包丁作りに取り組んでいるのだから、まったく人生は分からないものである。

 かつてどこの家庭にもあった手打ちの包丁をぼくは作りたい。

 外ではAIを駆使してバリバリ仕事をこなすけれど、家に帰れば手作りの刃物で食卓を飾り、鉛筆なんかを削っている――このぐらいが、ぼくたちの目指す未来の、テクノロジーと伝統文化が共存した、ちょうどよい落としどころではないかとぼくは常々思っている。

※1:タウンページデータベース
※2:読売新聞

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