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シャーロック・ホームズ『緋色の研究』

 旅のお供に文庫本を1冊選ぶとするならば——。

 この難問に応えうる愛読書をいくつかピックアップしてみると、『旅をする木』/星野道夫、『つむじ風食堂の夜』/吉田篤弘、『思考の整理学』/外山滋比古、『風の歌を聴け』/村上春樹などが思い浮かぶ。いずれも一度だけでは飽き足らず、何度も読み返しているぼくの一軍リストである。

 ここにもう一冊加えたいのが、ぼくの読書の原点『緋色の研究』/コナン・ドイル——顧問探偵シャーロック・ホームズとその友人ワトスン博士が主人公の、シャーロック・ホームズシリーズ第一作である。

 国語や作文が大の苦手だった10代のぼくが初めて心から面白いと思えた小説だ。それから約20年の間に、何度読み返したことだろう。シャーロック・ホームズの鮮やかな手腕を目の当たりにしたときの感動は、今でも色あせることはない。

 1878年にロンドン大学で医学博士の学位を取ったワトスンは、軍医として第二次アフガン戦争に従軍し、銃弾や病気により生死のふちをさまよった。その後「1日も早く本国へ帰せ」という医局の断定により帰国し、ロンドンで部屋を探す。そしてベーカー街221Bでのルームメイトを探していたホームズと出会い、ここから、全てのホームズ物語が始まるのである。

 「あなたアフガニスタンへ行ってきましたね?」ホームズはワトスンと初めて握手を交わした瞬間に、アフガニスタン帰りだと見破る。この特異な能力を武器に数々の難事件を解決へと導くのであるが、これは作者コナン・ドイルの、医学生時代の恩師ベル博士がモデルだということは、シャーロッキアン(シャーロック・ホームズの熱狂的なファン)の間では有名な話だ。

 ベル博士は「病気の診断には観察力が重要だ」と説き、患者の外観から職業や住所、家族構成までを言い当てたという。ドイルはベル博士の助手を務めながらその観察力を目の当たりにし、ついにシャーロック・ホームズという人物を生み出したのである。

 世間のホームズのイメージといえば、世界一有名な私立探偵で、助手のワトスンと供に難事件に挑む英国紳士、といったものではないだろうか。

 だが実際には、ホームズは麻薬の常習者であり、事件のない日の退屈をしのぐために、せっせとコカインに手を染める。極めつきには自宅の寝室でピストルを発砲し、弾痕で壁に文字を刻んでしまう。教養ある人物だが知識はひどく偏っており——例えばホームズは地球が太陽の周囲を公転していることを知らない——棒術、拳闘、剣術を極めた、武闘派であるのだ。

 探偵としての辣腕らつわんぶりの一方で、事件のない日々、いわば冬眠期間の退廃的な生活や、ワトスンでさえあきれるような奇行をする人物像のギャップに、ぼくはすっかり魅了されてしまった。その後、ホームズシリーズは全巻読破し、今、手元にある『緋色の研究』は2冊目だ。1冊目はボロボロにすり切れてしまって、昨夏に買い換えたのだ。

 旅先へと向かう途中、列車に揺られながら『緋色の研究』を開く。時折、車窓の景色に目を奪われながらこの先の旅程のことを考える。しかし、ひとたびページを繰り始めると、ぼくの目の前には19世紀末のロンドンの世界が広がるのである。

 これから先の人生においても、ずっと読み続けてゆくだろう。

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