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大阪発、青春18きっぷで“名古屋を食べに”出かける旅 #1

 夏休みも終わり、世の中が再び慌ただしく動き出した。

 元気に登校する子供たちの声を聞きながら、2020年9月1日、零細フリーランスの気ままな大人が、青春18きっぷでぶらりと旅に出た。

 2020年も早、半年が過ぎ、思えばその半分以上がコロナ禍に翻弄されてきた。正月ごろはまだマスクも必要なく、何気兼ねなく外出できたのに——。

 そういえば正月休みに出かけた某温泉リゾートの半額券が、引き出しの中に眠っている。引っ張り出してみると、コロナ禍で延長された有効期限が目前に迫っていた。

 このまま捨てるのは惜しい。今なら(2020年9月当時)感染拡大も落ち着いているし、どこか温泉にでも行こうかと考えた。十分な対策を講じれば、出かけても大丈夫だろう。

 温泉リゾートのパンフレットをぱらぱらと繰ってみる。

 なるべく近場で、どこか良さそうな温泉はないか。

 そして目に留まったのが恵那峡だ。

 岐阜県南東部・恵那市は、かつて中山道の大井宿でにぎわい、また雄大な峡谷美を味わえる恵那峡が景勝地として人気である。パンフレットの写真を見ると、ホテル浴場の眼前に広がる恵那峡の眺めが素晴らしいではないか。

 行き先は決まった。

 交通はどうするか。本来なら専用直通バスが大阪から発着し、目的地まで運んでくれる。しかし残念ながら、コロナ禍の影響で運休中である。

 ならば青春18きっぷはどうだろう。

 今なら夏季利用期間に間に合うし、乗り継ぎを調べてみると、大阪から恵那まで約4時間と手頃な距離だ。どうせなら途中、名古屋に寄り道して、名古屋名物に舌鼓を打とうじゃないか——。いかん、ヨダレが垂れてきた。

 そうして平日の通勤ラッシュに混じりつつ、週の前半から旅することの、少しの後ろめたさと自由を胸に、小さなバックパックを携えて、新大阪駅へと向かったのであった。

トラブルに遭わない旅は旅じゃない?

 ない。

 どこにもない。

 ——あれ、青春18きっぷって、みどりの券売機じゃ買えなかったっけ。

 駅のきっぷ売り場で慌てふためくぼくを横目に、通勤客の波がとどまることなく改札口に吸い込まれてゆく。

 一体、何を慌てているのか。

 券売機のメニューの中を、どこをどう探しても「青春18きっぷ」の項目が見当たらないのである。

 青春18きっぷの旅はこれが初めてではない。今まで幾度となく利用し、その度にみどりの券売機で購入してきたのだ。

 今日のアクセスは念入りに調べてある。電車が1〜2本遅れたところで問題はない。しかし刻々と過ぎてゆく時間が気になって、左腕の時計に視線を送り、時刻と同時に日付が目に入った。——そしてあることに気がついた。

「ゔぁっ……!」その瞬間、公衆の面前にもかかわらず、ぼくは声にならない声を発してしまったのだ。

「青春18きっぷの販売、昨日までだった……」

 途絶えることのない人波が、ぼくの旅情をからめ捕り、改札口へと消えていった。

 青春18きっぷの販売期間は、利用期間と少し異なる。2020年夏季(例年ほぼ同じであるが)の場合、利用は7月20日から9月10日まで。しかし販売期間は、7月1日から8月31日まで。どうあがいても8月31日までである。

 御愁傷様——。

 どこからかそんな声が聞こえた気がした。旅をやめようかとも思ったが、宿は予約済みだ。近くの金券ショップに、余った青春18きっぷがあるかも……営業時間外だった。ならばいっそ、名古屋まで新幹線はどうか。いやとんでもない、これはあくまで鈍行列車の旅なのだ。

 仕方がない。ひとまず名古屋までの乗車券を購入して、名古屋の金券ショップに望みをかけようと決めた。そうして新大阪から名古屋まで、3,410円の乗車券を片手に改札口をくぐったのである。

 誰かが言った。

 トラブルのない旅なんて、旅じゃないと。

 旅はトラブルあってこそなのだ。

 こうして、旅はいきなりハイライトから始まった。

 8時27分、新大阪駅発・新快速長浜行。

 いきなりトラブルに巻き込まれた——ただの準備不足である——おかげで、予定より出発が30分ほど遅れてしまった。

 しかし京都駅を過ぎると、殺伐とした通勤ラッシュも落ち着き、クロスシートかつ乗車率の低い車内は快適そのものだ。大津、草津、彦根と列車は進み、のんびりと車窓の景色を眺めていると、朝のドタバタをすっかり忘れ、人流の中に消えた旅情が再び芽生えてくるのを感じていた。

 ああ、僕は今、鈍行列車で旅をしているのだ。

 米原駅9時47分着。

 ここでJR東海道本線・大垣行に乗り換える。「クモハ311-4」、シルバーのボディーに白い顔、オレンジ色のストライプが入ったレトロな車両だ。

 10時32分に大垣に到着し、再び列車を乗り換え、名古屋駅に到着したのが11時13分だった。岐阜駅を過ぎたあたりから、少し雨が降り出していた。

米原駅での乗り換え。
近代的なビルが建ち並ぶ名古屋駅周辺。

名古屋名物みそかつ

 なんとか名古屋にたどり着けた。ここでの最大のミッションは「買い忘れた青春18きっぷを探すこと」だが、その前にまず腹ごしらえだ。改札をくぐって駅地下街へ。向かった先は、名古屋名物「みそかつ」を食べさせる「矢場とん 名古屋エスカ店」。矢場とんは創業60余年の老舗である。

 店先には矢場とんのキャラクター、まわしを締めた大きな豚のマスコットが飾られている。丸々と太ったうまそうな豚だ。

 暖簾のれんをくぐると、愛想のいいお母さんが席へと案内してくれる。店内は日本の大衆食堂然とした佇まいだ。おしゃれが過ぎる内装だとそわそわして落ち着かないアラフォー男でも気兼ねなく入店できる。明るく活気のある店内は、まだ昼前にもかかわらず満席に近かった。

 さっそく矢場とん名物「わらじとんかつ定食 ¥1,800」を注文する。

 しばらくして、まず定食のご飯と味噌汁が運ばれ、続いてたっぷりの千切りキャベツが添えられた、揚げたてのとんかつがテーブルに並んだ。

 ——でかい。でかいぞ、これは。

 お察しのとおり、わらじとんかつの“わらじ”とは、履物のわらじに由来する。目の前のとんかつはさすがに実際のわらじ大には及ばないものの、通常のとんかつ定食の1.5倍、いや2倍ぐらいの大きさはあるのではないか。そして、そのとんかつに、秘伝のソースがなみなみと注がれてゆくのである。

 とくとくとくとくとくとく。

 まだ注ぐ。

 とくとくとくとくとくとくとくとく——

 まだ注ぐ。

 とくとくとくとくとく——

 いや、ちょっとかけすぎじゃあるまいか。

 濃すぎやしないか、辛くはないか。「昨年そろって大病を患ってねぇ」なんて老夫婦がこれを食べたら、そのままぽっくり逝ってしまいやしないだろうか。

 余計な心配をさせるほど、それはもうたっぷりとソースが注がれるのである。

 これはだいぶ重たいだろうなと少し身構えながら、ひと切れ口に運んでみる。

 が、ちょうどいい。

 濃くない辛くない、とてもいい塩梅だ。

 だって考えてみてほしい。

 とんかつとソースって、割とくどい部類の食べ物でしょう? 

 それなのに、胸焼けを起こしてしまいそうなぐらいの大量のソースが、揚げたてのとんかつと実にマッチしているのである。これが老舗のなせる業なのかと、思わず唸ってしまうのだ。

 テーブルにはカラシ、すりごま、七味の薬味に加え、大根やきゅうり、白菜の漬物が用意されている。

 手前と奥、2列に並んだとんかつの、1列目は全ての薬味を味わう。合間につまむ漬物が、口の中をさっぱりとさせてくれる。

 残る1列は、ぼくが気に入ったカラシ+すりごまの組み合わせでガツガツと腹の中にかきこんでゆく。

 大変おいしく完食しました。

「矢場とん以外のみそかつは食えたものじゃない——」

 隣の席の、サラリーマン風のグループから、そんな会話が聞こえてきた。

 12時を少し回り、ぼくが勘定を払うころには店先に行列ができていた。

青春18きっぷを探せ!

 みそかつを食べ終えてすっかりご機嫌になったぼくは、朝の失態を取り返すべく、雨の中、金券ショップを探し回った。きっと余った青春18きっぷがどこかに売られているはずである。

「すみません、売り切れです」

 1軒目ははずれだった。

 2軒目、

「あいにく売り切れです」

 手に入らない。

 例年なら大抵の金券ショップには売られているのに。

 やはりコロナ禍の影響だろう。毎年60〜70万枚を売り上げる青春18きっぷだが、2020年度の販売枚数は激減しているに違いない。

 雨足が、ますます強くなってきた。

矢場とん 名古屋駅エスカ店

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