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反省できる人は初めから失敗しない
歳のせいかタイトル通りのことを最近よく実感する。
例えば、毎年クラス運営に失敗する教員がいる。
年度末のまとめでは反省と改善を口にするのだが、結局同じことを繰り返す。
そりゃそうだよね。
傍目にはそう見える。
なぜなら、反省すべきポイントを反省できていないのだから。
「次は気を付ける。緊張感をもってやる。」
それはそれで結構だけど、そもそもあなたのクラス運営が失敗している理由って「気を付けてないから」でもなければ「緊張感がないから」でもないよね。
私なりにアドバイスはするのだけど、なかなか意図が伝わらない。若い頃は「言葉を尽くせば人はわかりあえる」と思っていたけれど、最近は言葉で伝えられることの少なさを実感するばかり。
クラス担任だけでなく、管理職も同様だ。いや、学校に限らず、あらゆる会社や組織で同じことが起きているのかもしれない。
孫氏の有名な言葉に「勝つ者は先に勝利してから戦い、負ける者は戦ってから勝つ方法を考える」というのがあるが、まさにそれである。
学校における人事や組織編制は基本的に年度当初に確定し、途中で変更することは少ない。学期の途中で担任やクラブ顧問が変わるなんていうのは不祥事以外ではめったにない。
だから最初にどのようなプランでどのように編成するかがとても大切だ。担任に任命したものの、相性が悪いからこのクラスの担任とあのクラスの担任を明日からチェンジします、なんてできないのだから。
つまり、担任で言えば始業式にクラス開きをした時点で失敗するかどうかほとんど決まっている。学校全体で言えば、最初に誰にどのような役割分担を与えたかで大体勝負は決まっている。
よって、反省すべきはその見通し(ビジョン)の甘さなんだと思う。
曖昧な教育目標からは大雑把なプランしか出てこない。大雑把なプランからは抽象的な方法論しか出てこない。
何を大切にしてどうしたいのか。そして、それはなぜなのか。
そこを自分自身に問いかけ、極限まで落とし込む。
まずはそこから、というよりすべてはそこから始まるのだと思う。
ところが、毎年同じ失敗を繰り返す人はそこのところがわからない。気が緩んでいたからだとか、緊張感がなかったからだとかいう見当違いな「反省」をする。これは単なる「後悔」であって「反省」ではない。
とはいえ、ここに気がつくのは自分では困難ではある。
「こんな甘い見通しなら絶対失敗するよな」ということに気が付ける人は「勝負は戦う前に決まっている」ということを理解している人だ。
そういう人は「このままじゃマズイからもう一回考え直そう」となるので、結果的には失敗することが少ないし、失敗しても改善する。だから年々成長もする。
失敗する人はそこのところが理解できない人なので、「次こそは頑張るぞ」程度の「後悔」をして同じことを繰り返す。同じことを繰り返しているだけなので、5年経とうが10年経とうがほとんど変化もない。
やがて自己肯定感も低下し、心を閉ざして守りに入ってしまう。
この負のスパイラルを突破するのは「自己反省」では難しい。
自分では気付けないこと、認識できないことを改めるというのは、原理的に不可能だからだ。
となると他者の視点で指摘してもらうしかないのだが、残念なことに教師という仕事はそのような機会がとても少ない。
教員は新卒一年目でも「先生」と呼ばれる。生徒からはもちろんのこと、先輩教師からも「〇〇先生」と呼称される。
管理職はともかく、教員同士は基本的に横並びであって、要請することはあっても「命令」することはない。だから、なぁなぁの関係になりやすい。
下手なクラス運営や授業を行っても同僚教師から「下手クソ!」といわれることはないし、生徒から「先生の授業はつまらないです」と言われることもなかなかない(進学校なら多いのかもしれないが、そうでない学校ではそもそも授業に上手さを求められてもいない)。
だから、教員にとって大切なのは「指摘してもらえる環境を自分で作ること」だと思う。そういう場を自ら作る。そういう人を近くに置く。
とはいえ後輩に対して「指摘してもらえる環境を自分で作りなさい」と命令することはできない。あくまで助言までだ。だから、なんとかしてあげたくても結局は本人の質で決まってしまう。
人の運命を変えるのはとても難しい。
結局、今日も「嘆く」を繰り返すばかりである。
なんとかならんものか。
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