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タバコと免許制度に思う『教養』

 少し前に原付免許で125ccまで乗れるようにする案が話題になっていたが、こうした免許制度の変更は様々なところに影響が出るものだ。

 学校現場で最近出てきたややこしい事案は特定小型原付の問題である。ペダルがないため、区分としてはバイクに属すると思うのだが、16歳以上は免許がなくても乗ることができ、ヘルメットは努力義務らしい。

 そして、ついに来たかという感じだが、この特定小型原付で登校する生徒が現れた。勤務校はバイクに乗ることを禁止している。法律上は16歳からバイクの免許を取得することができるが、校則によって制限をかけ、違反した者には停学などの処分が下される。

 法律に違反していないことを校則という「私的ルール」で処罰すること自体、ややこしい問題をはらんでいるのだが、今回はそれをさらに上回る事案だ。なにせ免許自体が不要なのだから自転車に乗るのと変わらない。

 バイク通学禁止の学校でバイクをOKにしてよいのか。いや、バイクではなく特定小型原付だからいいのか。バイクはバイクということで処分をするべきなのか。こちらとしては、ややこしいものに乗ってこないでくれよというのが正直なところである。

 面倒なことは続くようで、今度はよくわからないけどベイプとかいう電子タバコを吸う生徒も現れた。これはニコチンが含まれておらず、法律的には未成年が吸っても問題ないらしい。

 トイレなんかでベイプを吸われて、
「おい!お前!何タバコ吸ってんだ!」
「いや、これベイプなんで」
と返された時、教師はどうすればよいのだろうか。

 法律上タバコですらないものを「タバコっぽいから」という理由で処分を下す。そう考えると何かオカシイような気もする。かといってOKにしてしまうのも違和感がある。実にややこしい。

 そもそも免許って一体何なんだ。
 教師をしているとそう感じることも多々ある。特に高校は。

 古い英語教師の中には海外に行ったこともなく、長文は訳せるが英会話ができないという先生も少なくない。一方で、帰国子女のバイリンガルだったとしても、免許がなかったらその人が授業を受け持つことはできない。

 学習指導要領が新しくなり、共通テストもリスニングの配点が倍になった。これは明らかに「読む英語」から「話す英語」へのシフトである。「話す英語」で見た場合、ベテランの英語教師よりもそこらへんの外国人や帰国子女の方が英語が達者だったりするのだが、「免許」という紙切れ一枚があるかないかで規制されるのも何か変である。
 
 これが小学校や中学校であれば発達段階に応じた専門的な知識も必要なのかもしれないが、高校の英語は指導要領の改訂以後、どんどん「英会話教室化」しているので、もはや免許なんかなくてもネイティヴに教わった方がいいようにすら思う。実際に教員不足の学校などでは臨時免許をバンバン発行してネイティヴに受け持たせているとも聞く。

 こうなってくると「英語」の授業は「教養」を身に付けるための授業なのか、英会話の「スキル」を身に付けるための授業なのか。そこが問われることになるだろう。個人的には「教養」のためだと思っているので、昨今の「スキル」化は寂しい限りである。古典的な英語教師の逆襲による潮目の変化を密かに待ちわびている。

 そこで、一度取り組んでみたいと密かに温めているのが、「英訳タイトルコンテスト」だ。例えば『紅の豚』の適切な英訳を考えるというようなお題はどうだろう。少なくとも「レッドピッグ」なんてダサい訳は減点だ。

 「赤」と「紅」の違い。そもそも「くれない」って何なのか。「くれない」という音感にある「儚さ」や「ダンディズム」を表現できる英単語は何なのか。
 そんなことを議論しながら、適当な訳をみんなで考えていく。これは英語力だけではなく日本語力が問われてくる。そして、作品を通じてのテーマや作者の伝えようとしていることは何かといった文学を楽しむ感性も必要になってくる。その意味では非常に「総合的な探究」の時間になるのではないだろうか(ちなみに英訳タイトルは「ポルコロッソ」というらしいが、言うまでもなくそれを当てることを目的としているわけではない)。

 こうした授業は採点する教科担当者の教養が試される。何を持って、どんな基準で評価を付けるのか。こうなってくると、そこらへんのネイティヴや帰国子女にはできないだろう。

 正直なところ、昨今の「実学志向」には辟易している。どこもかしこも「経営学部」とか「なんちゃらビジネス学部」が人気だし、「データサイエンス部」も急増中だ。近年は美容やメイク、エステを学ぶ大学まで現れた。専門学校の仕事を奪いたいのだろうか。

 大学は「スキル」ではなく「教養」を学ぶところだと思うし、「流行」よりも「不易」を学ぶところだと考えている。「スキル」は個人に還元されるから専門学校という形で経営が成立するが、「教養」は社会に還元されるものなので補助金なしには経営が成立しない。

 昨今は大学の無償化まで取り沙汰されているが、美容の専門学校は自腹で美容の大学は無償化なんてことになったら無茶苦茶だろう。今になって大学の再編とか統廃合とか言い出しているが、展望もなく大学を増やした結果、定員が割れて生き残るためになりふり構わなくなっているのが今の惨状である。

 「学び」とは何か。「教養」とは何か。たかが一教師が偉そうに言うことではないが、文部科学省こそ、その原点に立ち返って考えてもらいたい。

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