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表現者を表現者たらしめるもの

話す。書く。歌う。描く。弾く。
そういうことを日常的におこなっている人は、(ちょっと大げさな表現かもしれないが)「表現者」であると思う。

表現者には、ものを生み出す喜びと、ものを生み出す苦しみが同時に押し寄せる。

いたのさんのnote「そのままでいい、自信を持って!」を読みながら、表現者を表現者たらしめるのは何なのか、考えてみた。

表現者が表現者でいられない時

いたのさんは、初めてオリジナル曲を作ろうとした際、曲作りにすごく苦労したそうだ。

しかし、いざ曲を作ろうと思うと全然進まない……。
素直に自分のcotreeでの経験を吐き出してみようと思うけれど、書いては消しての繰り返し。

一週間前になっても切れ切れの歌詞だけが並んでいる状態。

生み出せない時というのは、苦しい。
表現者は、みな一様に孤独だ。チームやバンドがあっても、ものを生み出す瞬間はひとりになる。いわゆる「降ってくる」みたいにスムーズにいけばいいが、大抵の人は、なかなかピッタリくるものに出合えず、右往左往する。

わたしはもう長年「書く」ことを続けているが、なかなかピッタリ来ない瞬間は何度も経験した。フレーズが見つからない。あれこれ並べてみても薄っぺらい気がして、結局全部消すことになる。

「なんで、うまくいかないんだろう……」
「なんで、こんなことしてるんだろう……」
こんなに苦しいならいっそ辞めてしまおうか、とさえ思えてくる。

「なんで良いメロディが思いつかないんだろうか……。」と情けなくなっていました。「曲作らなくても、いつものようにカバーで好きな曲歌えばいいんじゃないか。」そう諦めてしまっていました。

それでも、諦められない。諦められないから、こんなに苦しい。
一旦その場から離れても、ずっとモヤモヤが居座る。なかなか、離れてくれない。
そういう日々を、繰り返す。

表現者にとって、表現することは容易ではない。
才能とか、センスとか、いろいろ言うけれど、結局は愚直に向き合うしかない。天才も凡才も関係なく、ただ表現したいこと、表現するということに向き合い続けるしかない。

表現者は、表現者としていられない時にも、表現者としていなければならないのかもしれない。

また、表現できるようになる時

モヤモヤしたりぐちゃぐちゃしたり。葛藤を続けていると、一筋の光が見えてくる瞬間がある。

いたのさんにとっては、ひらやまさんの書いたnoteが、そのきっかけだった。

このnoteを読んだ時、cotreeで経験した色々なことが思い出されて、胸がいっぱいになりました。

cotreeでの半年間で、学んだこと。悩んだこと。もらった優しさ。
そして、卒業する時に、自分のcotreeでの経験をまとめたnoteを書こうと思っていたのに、結局書けていなかったこと。

人は、時が経つにつれて色々なことを忘れていくものだと思います。
楽しかった思い出も、してもらって嬉しかったことも、感じたことも。

でも、自分にとって大切なものは、忘れたくないものは、
言葉にして、自分らしい表現で、伝えたい
と思いました。

再び表現できるようになるタイミングは様々だが、多くの場合は「誰かとの繋がり」があると思う。

誰かからの言葉。誰かの行動。誰かの音楽。
そういうものに触れて、繋がって、自分の中から言葉があふれ出す。

表現したいものがこんなにたくさんあることに、やっと気が付く。

表現者に必要なのは、「情動」と「愛情」だ

表現者が表現者であるためには、「情動」が必要不可欠だ。
どうしてもこれを伝えたい。この気持ちを言葉・音にしたい。あの人の力になりたい。表現を通して世の中にこれを届けたい。
そういう強烈なエネルギー、どうしようもないくらいの情動がないと、表現は続けられないと思う。
そう思うくらい、表現するというのは、苦難の連続だ。書くことも、歌うことも、描くことも、全部そう。

しかし、情動だけでは足りない。
情動は、不安定だ。突き動かされてうまくいく時はいいが、一旦歯車が狂うと途端に全部が破綻してしまう。
「私には才能がないのでは」と、嫌なことを考えてしまう。

表現者が表現者でいられない瞬間は、必ず訪れる。どんな天才も、いつかは必ず壁に当たるだろう(きっとね)。

その時に必要なのは、コントロールできないほどの情動ではない。存在そのものを肯定し、苦しんでいる自分すらも包み込まれるような「愛情」だ。

それは、ストレートな言葉ではないかもしれない。例えば他の表現者の作品や姿勢、どこかから流れてきた音楽、たまたま目に留まった広告。
そういうものから愛情を受け取れた時、凝り固まっていた身体が軽くなる。いつの間にかかかっていたフィルターが剥がれていく。

もっと気軽に、言葉を、歌を、絵を、うみだそう

思えば、「曲が書けない」「良いメロディが思いつかない」なんてことはないのだと思います。
それは、「こんな曲良くない。」という自分自身による決めつけ。
「こんなの聞いてもらうの恥ずかしい。」「良い曲だと思われたい。」というエゴ。

「こんなの聞いてもらうの恥ずかしい。」「良い曲だと思われたい。」

こういう気持ちが、表現者である自分を抑えつけてしまう。うまれたものを否定し、うみだそうとする自分を封じる。

「こんな作品を人に見せてはいけない」
「こんな完成度では認められない」
「もっと評価されるものでなくてはならない」

そういう気持ちは、作品のクオリティを上げる。表現者としての成長に繋がる。
しかし、そういう気持ちが、作品のクオリティを下げることもある。表現者としての成長を妨げることだってある。

最初に詩を書いた時。
最初に絵を描いた時。
最初に歌を歌った時。

こんなこと考えていただろうか。
評価されたい、なんて。
みんなから認められたい、なんて。
こんな出来じゃダメ、なんて。

きっと、考えていなかった。もっと身軽に、「表現する」ということを楽しんでいた。

あの頃を、思い出そう。
表現するといことは、楽しくて、明るくて、嬉しくて、狂おしいほどの喜びに満ち溢れたものなんだから。

takaren advent note 23日目

cotree advent note のすてきなnoteたちを、一つずつ紹介していきます。


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