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父のすごい歴史~闘病歴終盤~

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2003年4月2日に前立腺がんの手術を終えた父は、

同年4月14日には退院。

一時、千葉へ身を移していた父もこの頃は担当医がいる東京に戻ってきていた。

毎回体力ができるだけ衰えない様に「食べる」ことを心掛けていた。

私はこの頃25歳、社会人になっていた。

父に少しくらい良いものを届けたい、病院に往復する際の車が欲しい、

社会人早々で気が付けばダブルワークをしていた。

近所のカラオケ店深夜枠、ファミレス深夜枠、時折夜の街でもバイトをした。若かったしなんてことなかった。

お蔭様で元から睡眠時間が短くても耐えうる体だった様で、

大変な時もあったが働けることに感謝をしながら楽しく働かせてもらい、稼ぎ、月に数回父の元へ行く生活が続いた。今までたくさん贅沢な体験をさせてくれた父に少しでも何か・・・と若いなりに考えていた。


もう手術自体、これで終わりにして欲しかった。

退院のわずか2ケ月後の定期健診で次は「食道がん」が見つかった。

下記、まだ続く父の闘病ノートより。

■2003年6月24日

食道がん にて入院。

同年7月15日放射線治療開始。

■同年7月18日一時退院。

■2003年7月22日

食道がん・放射線治療の為、再度入院。

■同年8月15日退院。

季節は夏を迎えていた。

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短期間に何度も手術を繰り返した上、更に放射線治療。

体力は、がくんと落ち、極度の貧血で輸血も必要になり慎重に処置対応をしてもらっていた。元から細身の父であるがもっと細くなり、歩くのに支えが必要な日も度々出てきた。

8月15日退院以降、また父のひとり暮らしが始まった。

ここまで痩せてしまってひとり暮らしがとても心配だった。

酸素も不足していた為、酸素吸入器が病院から貸し出されて父の家に置いてあった。そんな状態でも私たちが少しでも顔を出すと嬉しそうに対応してくれていた。


ゆるやかな坂が多い街だった。時折一緒にゆっくりと散歩をした。

支えがないとふらふらして倒れそうなシーンもあったが私たち姉妹と電車でゆっくり長い時間をかけて銀座まで出かけたこともあった。

きっと父の長年の職場でもあったし、庭だった銀座の街を目にやきつけたかったのかもしれない。

もしくはパワーを吸収したかったのかもしれない。

父が銀座の街を散歩しながら「懐かしいな~、また「誠」の肉が食いたいな~。」と、食欲さえままならなかった体調であったのにそう言ったのだ。

例の看板を出さない肉料理の名店「誠」だ。

私は心で少し「くすっ」とした。

極上最高級の質である食事ならこんな状態であっても、きっとまだ食べる気持ちになれるなんて、さすがグルメなパパ。









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