ふかたたかゆき
迷いの中にいた7月がやっと終わり、ワークショップが目白押しの8月が始まった。前の日記は7月の後半、仙台へ向かう前に終わっているがぎりぎりの状態で日々を過ごしていたことがわかる。それでもその後仙台での撮影は終えることができた。やっぱり落ち込んだこともあったが初めて撮影が「楽しい」と思えたのは、今回の及第点クリアだ。周りに迷惑はかけたけど7月をとにかく終えられた。 8月に入ったら急に別の仕事が始まったが、しばらくの間はふわふわと体だけ動かしているような感覚が続いた。7月はスケジ
撮影の現場が折り返し地点に差し掛かった。前半たった5日間だけの撮影なのに初日の記憶は遠いかなたへ行ってしまったように思える。落ち込みと浮き上がりを行き来しながら1ヶ月近くの時間が過ぎたと思うとどうやってこの日々を過ごしてきたのか、よくわからない。周りの人たちはとても思いやりがあって自分は幸せだなと思う一方で、やっぱり良くならない自分の動きに辟易とする。それで落ち込んだ瞬間も何度もあったが、少し考え方を変えた。 得意なことは得意な人にやって貰えばいい。苦手なことを無理に克服し
今日は新月らしい。そのタイミングで苦手な現場の仕事がインするのだから何か単純な”始まり”という気がする。今自分で書いていてタイピングが止まったが、本当に現場が苦手なのだろうか?なんで苦手なのだろう?なぜそう思っているのだろう?決め付けているのだろう? ・人が言っていることがいつも以上にわからなくなる。相手が言っていることの意図を掴めない。 ・相手が言っていることを自分の範疇で解釈してしまう。 ・周りで起こっていることを先読みして動けない。 こういったことが苦手意識を増
久しぶりにスケジュール管理以外の文章を書いてみる。”文章を書く”という筋肉がとても衰えているのが指先から脳へ、あるいは脳から指先へ伝わる。久しぶりに動かした筋肉で物を持ち運ぶようなぎこちなさがタイピングを重くゆったりとした動きにしていく。多忙の中で何かを忘れてしまったというほどのことでもない。むしろ仕事の種類からすれば余裕があるくらいのはずだ。しかし単純な経験不足ゆえか、とても余裕を持っているような感覚ではいられない。何か忘れたことがないかつい考えてしまうが、残念ながら本当に
振り返ることでしか書くことができないことがある。今現在の中で決して書くことができないことがある。 言葉の外にある出来事が刻々と変化し自分に影響を与え続けている時間には、書けない言葉たちがある。だけど、振り返ったときにもう忘れてしまっている言葉もある。外側からの刺激で出さざるを得なくなったような言葉は、その瞬間を逃してしまうと途端に忘れられていく。振り返っても、言葉の足跡はどこにも見つかることはない。 その人にとって不要になる言葉というものがあるだろうか。ある時期を過ぎればも
シアーシャ・ローナンの奔放な身体が物語とは関係のない動きを不意に見せるとき、グレタ・ガーウィグの映画は突然輝き出す。ガーウィグの処女作である『レディーバード』からその奔放さは目を見張るものがあった。彼女の身体は映画の中で語られる主題と交わり、青春時代の輝きとなってスクリーンに映写されることになる。とはいえ『レディバード』のフレームで駆け回るシアーシャが持つ時間の感覚は、おそらく編集前と編集後で大きな違いがあったのではないだろうか。完成された映画はシアーシャの顔を含めた魅力的な
つい1ヶ月前はまだ得体の知れない、誰の目にも見えないウィルスとやらに翻弄されてずっと自宅にいた。もしかしたらあの時間は新しいことをするのにちょうど良いタイミングだったのかもしれないが、わたしは何を始めることもなくただただ家にいた。あの薄いもやのような時期に日記を始めた人の話も何回か聞いた気がする。明らかに始めたばかりのようなジョギングのランナーに、家の中から密かにエールを送ったりしていた。 何か、文字を書いてみようと思った。共同作業というタフなプロセスではなくたった1人で