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倭人を招待?ナゾの記念式典を追う??

竹嶺を開く。倭人、来聘す。阿達羅尼師今五年三月=新暦158年4月頃

→新暦158年4月頃、新羅の第八代王の阿達羅尼師今は、忠清北道丹陽郡と慶尚北道栄州郡の間に、竹嶺の道を開設した。倭人が来訪した。

倭国と相い・・・・・嶺・・・・・。 王暦第一、第八阿達羅尼叱今条『三国遺事』倭人伝

→(新暦158年4月頃?)(新羅の阿達羅尼叱今は?)、倭国と会合し・・・・・(竹?)嶺・・・・・。

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GoogleMapより引用

阿達羅尼師今とはだれ?

新羅の第八代王(154〜184)

どんな意味を持つのか?

新羅の首都の慶州から見ると、後漢の楽浪郡(平壌)と馬韓の国々(ソウルがメイン?)とのアクセスでしょうか。純粋に、小さな街、同士の交流という目的もあるでしょうが、

歴史書にされるほど重要な意味があったと考えるのが重要でしょう。歴史書にされるほどの意味とは何かというと、

中長期的に見て新羅にとって軍事的勢力拡大に寄与するかから

となることは、無難な解釈と言えます。どこに勢力拡大できるかというと、当然、ソウルや平壌方面です。竹嶺に築いた道を使って、高句麗も新羅に攻めたりしました。よく見たら、平壌から慶州への最短ルートですもんね。

倭人にとっての意味

倭人にとっては、倭人の鉄商人達が各地を闊歩していたことが推測できます。てことは、倭の商人達が半島南部で加工された鉄製品を北方に輸送する輸送路として使えるということ。商人は利ざやが稼げれば千里の道も行くものです。韓人のバイヤー達も連携して広域のビジネスが展開されていたのかと。もちろん貴重な鉄は高価で利ざやが高かったと推測できます。

倭人が来訪した意味

おそらく倭人が来訪したのは、新羅主催の記念式典だからでしょう。新羅が勢力誇示を図るために、画期的な道ができたと国際アピールするために、倭人を招待したのかと。半島南部にも倭人は住んでいました。上の二番目の引用文の『三国遺事』には「倭国」という言葉が書いてありました。倭国の代表者が出席していたということが考えられます。新羅の第八代王の阿達羅尼師今は、まず北部九州の倭国に使者を送ったと考えられます。そして、代表者らが竹嶺開通記念式典に出席したと考えると無難です。

現代も昔も変わらん

現代も、何かすごいイベントの時は、外国の賓客も招いたりします。記者もセットです。なぜするかって、外国にも情報をしっかり広めてもらうためです。馬韓や楽浪郡の方面から見れば恐怖の道でしょう。倭人や韓人の商人らにとって見れば、ビジネスチャンスの道ですから。

原文を実装してみる

158年4月頃、新羅の第八代王の阿達羅尼師今は、自らの治世5年目の年に、忠清北道丹陽郡と慶尚北道栄州郡の間の竹嶺という峠に、「軍事的勢力拡大」と「交通の円滑化による経済拡大」を目的として、「竹嶺の道」を開設した。竹嶺は新羅の首都慶州から後漢の楽浪郡(平壌)、馬韓の国々へのほぼ最短ルートであり画期的なルートであった。そのため、新羅にとって政治的、経済的、軍事的にとても悲願の道であったために、新羅が仮想敵国と見なさなかった倭国に使者を送り、倭人の代表者らを開通記念式典に招待し、多数の倭人が来訪した。そして、竹嶺の道開通記念式典は華やかに執り行われた。

まとめ

どうでしたか?とてもイメージが湧いてきたと思います。この見解は私独自の見解です。いろんな意味合いも合うかと思いますが、とりあえず私的にこのように結論付けました。もうちょい三国史記を読まないとわからないよね。またこの件に新しいことが発見できたら、新しい記事で修正していきたいと思います。朝鮮史書に書かれた倭国というタイトルで掲載していこうかなと思います。




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