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【盆踊りと同時にあった?】古典芸能と盆踊り



〈参考文献〉
日本古典芸能史/精興社/今岡謙太郎
舞台の光と陰/アカリ屋談義/岩崎令兒
伝統芸能の教科書/文学通信/藤澤茜


祭りの儀式が固定化して習慣化していく流れで、芸能の形式が整っていく。
儀式は繰り返す間に、熟練・批判の対象・鑑賞などの自由が生まれる。職業化され演じ手と受け手に分かれてゆく。


日本芸能は型を持つ。多神教のシャーマニズム芸の祭りから生まれた伝統芸能は、神の祟りをおそれて進行の手順が厳しく定められている祭から生まれその娯楽要素が高まっても、そのまましきたりとして型が残った。


芸能の流れ



最初の渡来芸能「伎楽(ぎがく)」
603年頃〜鎌倉期に伝承途絶え
呉、中国大陸中南方文化圏の仮面劇・歌舞。
寺院で仏像宝物中心に行列で練り歩く、行道形式。


「雅楽」に舞を伴う「舞楽」
701年頃〜800年代 朝廷先導による舞楽・雅楽隆盛期
十世紀頃 国風文化による洗練
唐楽などの左舞と、高麗楽などの右舞を組み合わせた一対形式。
朝廷の芸能となったため、一般に広がらなかった。
日本の雅楽は、神道と仏教の儀式性と、神を慰める遊戯性を両方持ち合わせている。

中国の唐楽(左舞)は、旋律優位の舞。
韓国半島の高麗楽(右舞)は、リズム優位の舞。

実演者は、管楽器と弦楽器からひとつずつ、打楽器すべて、歌、左舞右舞どちらかが必須とされる。
舞台は、中国の天子南面に基づき、観客が南に向かって北側に座す構造。


奈良朝期 渡来系歌舞と国有系歌舞の国家行事組み込み期
平安前期 制度整備、新作も行われる定着期
平安中期 国風文化の影響、伝承重きの固定期
平安後期 伝承と新解釈の古典化の時期

その後楽人たちは争乱のため四散。
戦国時代の終わりから復活。
明治三年に宮内省式部雅楽部組織。


伎楽・舞楽と共に渡来した、種々雑多な芸能「散学」
物真似笑い芸、踊、曲芸、奇術、傀儡師(かいらいし・人形芸)(サーカスや手品など)
支配階級の保護対象外だったため、かえって民衆に根付き民衆芸能の基礎となった。
平安後期から物真似演劇的な芸「猿楽」へ統一。


「猿楽」
専業芸能者集団の座による、初期の芸「翁猿楽」(歌舞)
各地の寺院と結びつく。
鎌倉末期から、能など娯楽的猿楽芸に取って代わる。


農耕の神事芸能から生まれた「田楽」
平安時代後期〜鎌倉期に急成長
古代の田植え祭り芸能に散楽系統の芸が加わったもの
農民による祭りと、専業の田楽法師による田楽に分類できる。
十一世紀末流行の「大田楽」や、田楽芸人による「能」の上演もあった。
寺社に対する寄付のための勧進興行でも行われた。
能が表芸となっていく。



「延年」
寺院における演芸大会、大規模な法会の後行われる様々な芸。平安時代末〜。
鎌倉中期から猿楽の影響を受けた芸、風流・連事が見られるように。
ここから狂言がはじまる。


「能楽」
猿楽座、田楽座が共に能を演じるようになり、その中で頭角を表したのが観阿弥。1368年〜
曲舞(くせまい)と言われる語り物の曲節を取り入れた謡の改革をした。パターンやリズムや文体など、能の基本的要素も作り出した。悲劇。

二代目、世阿弥。幽玄な芸の複式夢幻能の確立。役者や作者としての観客を引きつける努力から理論が生み出され、芸術論の著作を多く残す。足利義満の庇護を受けた。作劇に打ち込む。

豊臣秀吉などにより能は武士階級の式楽になり、大衆から離れて狭い美の世界にとどまることに。

順序や作法といった様式美が特徴。
一日公演が基本。5番立で間に狂言が入る。
もともと外舞台を向かい合う建物から鑑賞する形式が、現在の屋根柱付の能舞台の形に残る。
主役のシテ、脇役のワキ(能面なしの生身の男の人間役)、囃子方、狂言方がいる。
流派により異なるが、宝生流は180の演目がある。



能と分化した「狂言」
セリフの現代劇的で即興性が高い、笑いの喜劇として能とともに形態が整う。
群小の自由な活動だったが、江戸期から流派に分かれていき、勧進狂言も行った。

女性役でも面をつけず、特殊な役のみつける。
合わせて260の演目がある。

能も狂言も、伝えたいことの半分ほどしか表現せず、観客の想像に委ねられている。


近世期に成立した「歌舞伎」
戦国末期から江戸初期にかけて「風流踊」が発展して、一般人や女性による芸能上演が盛んに。出雲阿国の台頭、「ややこ踊」から「かぶき踊」を始めた。かぶき者=幕府体制に反発し、異形異相で新たな風俗を作った人々。女歌舞伎や若衆歌舞伎は熱狂的人気で、風俗の乱れとして歌舞伎は国から禁止令も出た。そのため、容色以外の技芸重視、戯曲重視で発展していく。
野郎歌舞伎から、十七世紀中頃は元禄歌舞伎へ。
役柄の確立、多幕物、技芸重視で写実的演技や台詞術が発展・型化、興行システム近代化。上方は写実性や妖艶さ、江戸は荒事が好まれた。

上方歌舞伎の坂田藤十郎
演技の写実性を重要視「役者論語(ばなし)」
覚えた台詞をいったん忘れて舞台上で相手役の台詞を聞いて思い出す方法など
作中人物になりきる、自然主義的な写実志向の演技術からは、歌舞伎の演劇的発展がみえる。

享保から宝暦(1716〜1751年)、停滞期で人形浄瑠璃作品を歌舞伎化していた。
宝暦からは、義太夫節の演者導入、回り舞台など舞台機構の発展があり、歌舞伎役者の芸系・家柄継承の意識が高まった。

寛政期(1789〜1800)、上方歌舞伎は合理化により衰退。同時代の事件や人物をそのまま脚色するのは禁止されていたため、古典作品の設定を利用する綯交ぜ(ないまぜ)手法の見直し。
共通言語の江戸語の定着。

幕末は、歌舞伎役者と落語家や絵師、戯曲家が三題噺の会を開くなど交流が盛んに。黙阿弥に見られるように、普通の人を主人公として描き、七五調長台詞や音楽面でも洗練された。江戸を回顧する世話物も書かれ、国劇としてや伝統芸として見られ始める。歌舞伎舞踊から離れて日本舞踊も発展。


先行する能、狂言、人形浄瑠璃などの影響を受けた総合舞台芸術。狂言作者、囃子方、大・小道具方、衣装方、床山など。
能楽の四拍子(笛・小鼓・大鼓・太鼓)と三味線、打楽器などで構成。
掛け声ありの観客参加型。
時代物、世話物、所作事(舞踊劇)に分かれる。



歌舞伎と並ぶ「人形浄瑠璃」(文楽)
中世の語り物の一派である浄瑠璃(三味線が特徴)と平安後期からの人形遣い芸が合わさり成立。大阪の義太夫節から育まれた。
古浄瑠璃時代(1655〜1672年頃)、超人ヒーロー物の金平(きんぴら)浄瑠璃人気。→歌舞伎へ影響
延宝期(1673〜1680年頃)、現実味のある演目が人気に。定型化し、新しい節付記号も作られた。人形の新機能も取り込まれる。
近松門左衛門による、五段組織の作劇法の確立、人間味ある作風。
その後、合作制度の定着、三人遣い技法の発明。
「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」の三大名作。
十八世紀末から、興行が減り古典化。「文楽」中心へ。

世襲制でなく師弟関係。
人間世界を俯瞰する効果がある。
三業(義太夫節を語る太夫、三味線方、人形遣い)から成る。太夫と三味線は高め合う関係。
近世以前の事件を描く時代浄瑠璃と、近世の庶民を描く世話浄瑠璃とがある。
言葉も音も大阪弁のイントネーション。





江戸時代に発展した落語や講談といった「舌耕芸(ぜっこうげい)」
音楽や扮装なしで語りのみ。
十九世紀から歌舞伎に代わり、手軽で時間もお金もかからない洗練された寄席の勢力が拡大。

「落語」
戦国時代の大名の側近の話し相手、御伽衆(おとぎしゅう)。1610年頃〜笑える小噺をまとめ刊行した、咄本(はなしぼん)。
1681〜1703年、芸人としての話術者登場。
100年停滞するも、文化人が集まり新作小咄を披露し合う咄の会がブームに。落語家が登場。

芝居噺、音曲噺、怪談噺、人情噺、三題噺がある。
江戸時代には大道具など派手な演出もあったが、現在では扇子と手拭いのみ。
師弟制で、前座・二つ目・真打の真打制度がある。
三味線に鉦や太鼓の寄席囃子、落語家それぞれに出囃子もある。
2人の登場人物のうち立場が上の人物を上手に座らせ話す決まりの、上下を切る。


「講談」
知識や物語内容を重視する芸、太平記などの古典書物を解釈を入れて読み聞かせたところから始まった。釈台(しゃくだい)と張扇を使用し、連続物が基本。
十八世紀頃から技芸面や娯楽面が重視され、専門の講釈師が出てきて職業化。実録体小説が取り入れられる一方、演目は多様化、長編化。御記録読を貫く人々も残った。歌舞伎などの演劇作品の題材にもされた。
女流講談師が約半数で、真打制度あり。
軍談、御記録物、世話物に大きく分かれる。

十九世紀から歌舞伎に代わり、手軽で時間もお金もかからない洗練された寄席の勢力が拡大。
興行内容も多彩で、色物の義太夫節や音曲、手品なども上演。前座や真打など階級で決まった演目を演じる形式が固まる。


「俄(にわか)」
祭礼の場で素人の即興寸劇から生まれる。江戸中期以降、お盆に上演されていた。専門の俄師も出て、寄席も上演場所とされていた。「茶番」も同じく、歌舞伎芝居を題材にした喜劇を上演した。歌舞伎を演じる名目に利用も。


「門付け(かどづけ)」
江戸に盛んだった年始の予祝芸で家々を回るもの。滑稽な掛け合い芸の万歳(まんざい)や太神楽、猿回し、鳥追い、馬の頭の作り物をもち舞う春駒など。


江戸時代の天保の改革(1842)により贅沢が禁止され、あらゆる芸能が禁止や制限を受けて衰退した。


明治以降、新派、自由民権運動の壮士芝居がはじまる。
三味線を伴奏に物語を語る浪花節=浪曲も流行。
明治末から新劇運動、女優登場、オペラの受容。
昭和に入り、映画・レコード誕生。


舞台と装置


猿楽表芸の翁、田楽初期に面をかけている。
能の出発段階から面あり。
江戸期に能面は型として定着。

能面、文楽の首、歌舞伎の化粧について、一種類のものが複数の役に共通して使用される決まりがある。役柄そのものを固定化、類型化してきた。

野外で客席を作り行われた猿楽や田楽は、秀吉時代から能舞台が整備され、明治期からガスや電灯の登場により能楽堂が造られた。


太陽光のもとで日本芸能は行われてきており、歌舞伎も初期は晴天昼間興行で、北側舞台南側客席の舞台設営で正面から太陽光を受けていた。太陽信仰で陰を好まない文化。東を上位とする独特の観念があった。


舞台には大地の神々を招く松の木を描いて、櫓を設けて、神々を招く目標とした。大地に根づいた枡席も特徴的。


日本伝統芸能と海外との比較


西洋演劇が言葉によってドラマを表現するのに対して、日本では音楽や舞踊(歌舞うたまい)による表現を多用している。芸、様式の肉体的伝承の特質は、世襲制や型にも表れている。


全体を見通してから部分を配置するヨーロッパ近代劇に対して、日本伝統芸能は型によって部分を固めてから全体におよぶ。絶対神的な演出の役職がなく、部分こそ重要という考え。




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