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今の時代、コンテンツの価値ってなに??


クロダイを釣りながらトーキョーを眺めて思う

今週はずっと魚釣りをしている。昔よく一緒に海外遠征(釣りのね)に行っていた友達とひょんなことから再会し、東京湾のクロダイ釣りがアツイ!と教えてもらったのが運のつき。すっかり魅了されて頻繁に足を運ぶようになった。僕も日々暇だし(いいのか?それで?)、その友達も自由業なのでまるで小学生の友達同士みたいに「たかのぶくん、つりいこー」「いいよー」みたいな感じでなんでもない日にあたりまえのように水辺に出向いている(いいのか?それで?)
 僕が勤めていた出版社は湾岸エリアにあった。お昼どきランチを食べに外に出ると、周囲を流れる運河の様子が気になって仕方がなかった。道ゆく人は誰ひとり気に留めてもいないお世辞にも綺麗とは言えないカーキ色の水面になにか生体反応がないか??といつも必死になって目を凝らしていた。だからレストランに入るより、キッチンカーでお弁当を買って、運河沿いのベンチに座って水をじーっと眺めながら食べるほうが好きだった。釣れるかなあ。魚いるかなあ。いや絶対いるな。今度、釣り竿もってきて帰りにやってみようかな。そう思いながら午後の会議が始まる時間まで水をを眺めて過ごしていた。だけど結局、一度もそこで釣りをすることはなかった。
 その運河で大きなクロダイが釣れる。運河の岸壁沿いに餌になる貝をつけた針を静かに落とすと、驚くほどまるまると太った40センチを超えるクロダイが姿を現すのだ。釣りをしながら見上げると、なつかしい出版社のビルが見えるのがなんだかおかしい。東京の同じ場所。なのにその景色は昔とはまるで違って見えた。でもそれは単に自分が見ている視点が変わったからというだけではないのかもしれない。出版業をとりまく状況が当時とは大きく変わってしまったから

新卒学生さんからのよくある質問


 新卒学生の採用面接をしていて、最後になにか我が社に質問などありますか?と水を向けるとかなりの高確率で「こないに本が売れなくなってきている時代に御社は今後どうやって商売していくねん?」(意訳)的な問いを投げかけられる。いや、ちょっと、そういう企業に履歴書だしてるのは御宅様ですがな、とは思うけど、まあそうだよね。そんな質問に対して「それわかったら苦労しまへんがな」とは口が裂けてもいえないわけで。きっとそんな時はわかったような口ぶりで「紙から電子に媒体が変わろうとも我々が提供しているのはあくまでもコンテンツであって、その価値は変わらない。むしろプリントメディアから電子になることでより多くの人にその価値を届けることができるので、心配ご無用」などと答える偉いさんがいたりするのだろうか。果たしてこれは正しいのか?正しくないのか?

 一見すると至極真っ当な正論のようにも感じる。電子書籍の市場規模は拡大しており、2023年には日本国内の電子書籍市場は前年比約15%増の5000億円に達すると予測されている。
 しかしだ。現在の出版不況、というかテレビもまたしかりなのでレジェンドメディア不況というべきか?において、なにがいちばんの問題かといえば、そのコンテンツの価値のパラダイムシフトだ。テレビ局や新聞社、そして出版社が提供するコンテンツこそ価値があると思っているのはそこで働いている人たちだけ。実際にコンテンツを消費する側にとってもはやその価値はないに等しくなっている。出版業界の売上は近年減少傾向にあり、日本の出版市場全体の売上は2010年から2020年の間に約30%減少した【参考: 出版科学研究所】。一方でYouTubeの視聴時間は毎年増加しており、2022年には1日あたりの平均視聴時間が1時間を超えている【参考: Statista】。
 ぼくはYouTubeが好きでよく見ているけれど、それは自分が見たいコンテンツが掘れば掘るほど無限に出てくるからだ。そのときに価値を持つのは発信している企業のブランドではない。たとえばクロダイ釣りの話なら、人気釣り番組のコンテンツももちろん面白いけれど、全く無名の地方のおじさんが自分だけが知ってる超ニッチなハウツーを詰め込んだ動画に軍配があがる。しかも無料だし。スポンサーとか関係ない情報、しかも商売ではなく「好きで」発信しているもの方が信憑性がある。実はこの「好きで」というのもまた重要なキーワードだ。
 先日、某キー局の番組制作担当とご飯を食べる機会があった。そのときこんな会話があった「本当に私たちも大変なんですよ。全然番組に予算なんてないし。だって見てくださいよ。(スマホを取り出して)テレビ局の名前なんてどこ探してもでてこない。ネットフリックス、Amazonプライム、UNEXT、YOUTUBEとかずらりと並ぶアプリのなかにあるTVverのそのまた奥の奥にしかないんです。私たちの作る番組はそこまでいかないと見られないんですよ」担当者は自嘲気味に笑った。
 確かにそうだ。むしろ置かれている状況は出版よりも厳しかもしれない。実は出版はコアなファンに支えられたニッチメディアとして生き残る可能性が残されていると僕は思っている。資本もさほど必要はない。雑誌はともかく書籍なら制作コストも個人で賄えるくらいでもあるから。一方でテレビ局はまっこうからグローバルな巨大ネットメディアと競合し、コンテンツ制作に関しても予算規模も桁違いに大きい。しかもニッチなジャンルに目を向ければ有象無象の一般配信者たちが無限の動画コンテンツを浴びせてくる。肥大した企業が生き残る道はさらに険しそうにも見える。とはいえ優秀な人とお金がたくさん集まる場所だから、そのうち起死回生の一矢を放つのだろうか。もっともわれらは人のことを心配している暇はないのである。

売れる本と売れない本の違いってなに?

 なので先ほどの問いについて、僕なら多分別の答えになる。むしろコンテンツの「価値」だけで他と並べてしまうと優位性は消滅してしまうのではないだろうか。そうではなくパッケージを含めた価値を提供することこそ生き残る道じゃないかなと。でも、この考え方は企業規模が大きいとなかなか成立しないのが難しいところなのだよな。だけどこれも映像メディアの現在地を見てみればよくわかる。昨今、テレビ各社は速報性、実用性、暇つぶしのメディアはすぐにその価値が消費されてしまうから、むしろコストはかかっても長く見られるドラマや映画などのコンテンツに力を注ぐようになっている。出版も同じだろう。ググればすぐに出てくるハウツー情報にはもうだれもお金を払ってくれない。となると消費されない価値をどうやって作るのか?ということにつきるのは自明だ。重要なのは単に媒体を変えることではなく、いかにして「消費されない価値」を提供するかという点だ。

 売れる本と売れない本。その違いはたぶん傍目にはほとんどわからない。もちろん圧倒的な人気の著者だったりすれば明らかなのかもしれないが実はだからといって売れるほど甘くない時代でもある。
 クロダイ釣り場に御歳70を超える名人がいた。僕がやっとこさ1枚あげる間に、15、6枚のクロダイをささっと難なく手にしている。同じような道具、餌も同じ。違うのは?餌をつける角度。0.1g程度の差による餌の沈下速度の違いだったり、ほんの数センチ刻みのタナの取り方だったりする。僕が見てもほとんど差はわからない。でもその微細な差に拘らないかぎりはその域には達することができないのが釣りという遊びだ。編集という仕事も一見無意味なような、小さな差の積み重なりが結果的に大きな差につながる。その差をおろそかにしているものに決してよい本は作れない。この場合の「よい本」にはいろんあ意味が含まれているけど。

 僕がまだ学生だった頃。最先端の情報は出版社の編集者のような一部の特権階級のもとに集まった。その情報を記事にすること価値そのものだった。時代が変わり、その気になれば誰もが専門家を凌駕する情報をなんなく手にすることができるようになり、さらに最近ではAIが進化して努力せずとも情報の収集と選別までしてくれるようになってきた。
そんな時代に生み出すべきコンテンツの価値とはいったいなんなのか。

遊びも仕事もまだまだ名人の域には程遠いけど、これまで以上に小さな差に、細部に、敏感になりたいと思う。たくさん魚が釣りたいからね(釣りの話かい!)




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