1995_オープニング2

土曜ソリトンSide-Bと共に過ごした一年間(1995②)

*2019.12.26. 加筆修正しました。「YOU」の動画リンク追加しました。
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(この項には無料マガジン「土曜ソリトンSide-B:あれから20年」と、対談集「夢の中で会えるでしょう」の序文を引用しています)

ドラマの収録が終盤に差し掛かった1995年3月、NHK教育テレビ(現在のEテレ)の「土曜ソリトン Side-B」というバラエティ番組(以下「ソリトン」)の司会のオファーをいただいた。

テレビに対する苦手意識はデビューからずっと抱えていたものの、1992年にWOWOWの番組で半年間司会をやっていたことがあったので、ドラマの仕事よりは無理なくできそうな気がした。ただ、喋りだけで自分のすべてを表現できる自信がなかったので「毎週1曲歌わせてもらえるならやります」とリクエストを番組サイドにお願いした。快諾を頂いて、エンディングは毎回スタジオライブで締めることになった。

*初期の印象に残るセッション、あがた森魚さんとの「大寒町」。

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「ソリトン」は毎週土曜、午後10時からの45分の番組だった。そういえば「虹の都へ」「ベステンダンク」のヒットのきっかけになった「ねるとん紅鯨団」(番組中のCMで繰り返し曲が流れた)も土曜の夜、同じ時間帯の番組だった。

番組タイトルにある「Side-B」は「レコードのB面」に由来したネーミングだ。「A面=主流のカルチャー」に対抗する「B面=カウンターカルチャー(平たく言えばサブカル)」をテーマに扱った番組がコンセプトだった。

1995年当時はまだインターネットもCS放送も一般に普及する前で、BSのチャンネルはWOWOWとNHKしかなかった。地上波テレビは「A面」そのもので、都市部の深夜番組以外では「サブカル」的テーマはなかなかテレビには流れなかった頃。

そんな時代に、NHK地上波でサブカル的特集を届け続ける「ソリトン」はテレビ番組の中でも特異な孤高の存在で、サブカル情報に飢えていた全国の若者たちが熱心な「ソリトン」ファンになった。そう、僕らの世代が坂本龍一さんの「サウンドストリート」に夢中になったのと同じように。

かの星野源くんも中学生の頃熱心な視聴者の一人だったと本人から聞いたことがある。著書『働く男』には、こんな記述があった。
《さまざまなカルチャーをわかりやすく、そしてその本質を楽しく紹介してくれた素晴らしい番組。二十代前半の頃「若いのによく知ってるね」と言われた大半の知識はこの番組からでした。感謝。》

*ひたすらシングルのB面を聴く「B面特集」は人気が高かった

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振り返ると、僕が高校〜大学時代を過ごした1980年代はネットが発達した現代とは比較にならないほど都市と地方の情報格差が激しかったことに気づく。中学〜高校と浜松に住んでいた僕にとっては、NHKはかなり重要な音楽やアートの情報源だった。

1980年、「600こちら情報部」という夕方6時の番組でヒカシュー、P-MODEL、プラスチックスのスタジオライブを観た鮮烈な記憶。その年の12月にジョン・レノンが暗殺され、NHK・FMのビートルズ全曲放送特集で初めて「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を聴いた。


NHK FMの坂本龍一さんの「サウンドストリート」のことはこの項でも書いた。XTC、ブライアン・イーノ、スロッビング・グリッスルなど地方のレコード屋では入手しづらい音源を聞いたのも、「アンビエント」「ミニマル・ミュージック」などの概念を知ったのも、すべてこの番組からだった。

「ソリトン」と同じ土曜夜の11時の教育テレビで糸井重里さんが司会していた「YOU」は、たまにYMOが出てくるのが楽しみだった。

*「YOU」にYMOが出演した回(リンク先に動画あり)
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010270_00000

そう言えば真ん中に写っている司会の荻野目慶子さんは、ドラマ「揺れる想い」の共演者だった。

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