デビュー8年目の大きな決断・メジャーレーベルからの離脱 (1996)
*2020.1.5. 加筆修正しました。
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*1996年の出来事:アトランタオリンピック開催 / 「NINTENDO64」発売 / ポケットモンスター 赤・緑(任天堂)やたまごっち(バンダイ)といったゲームがヒット / コギャルブームに火が付き1999年ごろまで継続する / 女子高生の援助交際が社会問題化する /
1996年は、若い世代のミュージシャンとの交流が始まった年だった。
ふとしたきっかけで、渋谷界隈のカフェやクラブで散発的に開かれていた20代のインディペンデントなミュージシャンたちのイベントに通い始めた。その中心にはリトル・クリーチャーズの面々、Port of Notes(畠山美由紀+小島大介)、中島ノブユキ君などがいた。
固定されたメンバーで演奏せず、流動的にお互いのセッションもサポートしながらプレイする彼らは、例えばアンコールでさらっとマーヴィン・ゲイの「What's going on」を演ったりしていて、DJ/クラブカルチャーを経た新しい世代の息吹を感じさせた。それは「ポスト渋谷系」のようでもあり、かつてのティン・パン・アレイのようなミュージシャンシップも垣間見えた。
中でも、当時25歳だったリトル・クリーチャーズのベーシスト・鈴木正人君は、エレキベースとウッドベースを使い分け(当時、両方を弾きこなせるベーシストに会ったのは坂本龍一さんのツアーで一緒だったクリス・ミン・ドーキー以来二人目だった)、時にキーボードも弾きこなすマルチプレイヤーなのに決してテクニックを見せつけないクールさがあった。
*テルミンと鍵盤でふざけてセッション。
そこで、アルバム「Rain or Shine」の収録曲「Planetarium Rain」で正人くんにウッドベースをお願いした。後に、このレコーディングが彼にとってセッションミュージシャンとしての初めての録音だったと聞いた。そんな正人くんも今や、大貫妙子さんを初めとしたJ-POPの数々のセッションに参加するベーシストになった。そしておそらく、今まで僕が最も数多く一緒にプレイしたベーシストは正人くんだと思う。
同じ頃、事務所にアルバイトで入ってきたのが当時29歳の権藤知彦君だった。日大芸術学部を卒業後、ボストン大学で電子音楽とユーフォニアムを専攻して日本に戻ってきたところだった。デモテープを聴かせてもらうと、実験的で個性的なオリジナル曲に非凡なセンスを感じて、早速アルバムの「Time Wave Zero」という曲でストリングスアレンジをお願いすることにした。
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