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『サピエンス全史』

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』の文庫版が去年の11月に発売されたと聞いてすぐに購入し、半年かけてやっと読み終えた。
本書は人類がアフリカに誕生してから世界中に広がり、数々の発明や戦争を経て現在、そして未来へ至る歴史を「3つの革命」に注目しながら眺めていくという内容だ。

認知革命

他の人類種との生存競争に打ち勝った要因

現生人類ホモ・サピエンスがアフリカの片隅に誕生したとき、ユーラシア大陸の大半には既に他の人類が定住していた。例えば、サピエンスは中東とヨーロッパに到達したとき、ネアンデルタール人と遭遇した。しかし誰しもが知る通り、ネアンデルタール人を含めたその他の人類種は全て絶滅し、サピエンスが世界中を征服している。何がサピエンスを勝たせる要因だったのか。それは「言語」のおかげだった。
サピエンスは15万年ほど前から既に東アフリカで暮らしていたが、地球上のそれ以外の人類種を絶滅に追いやり始めたのは7万年ほど前からだった。それまでの8万年間、サピエンスは他の人類種に比べてさしたる強みも持たず、むしろ中東への進出をネアンデルタール人に阻まれ、撤退している。しかしその後、7万年前から3万年前にかけてサピエンスは他の人類種を駆逐し、オーストラリア大陸にまで到達している。この時期にサピエンスは新しい思考と意思疎通の方法(=言語)を獲得し、それゆえに他の人類を圧倒したと考えられており、このことを研究者は認知革命と呼んでいる。

言語によって虚構を語ることが可能になった

我々の言語が持つ柔軟さによって、我々は「虚構」について語る能力を獲得した。例えば猿などの動物が警告音などを発して仲間同士で危険を伝え合うことは知られているが、これは現実に存在する天敵の存在などを知らせているに過ぎない。しかし我々の言語はそういった実在する物事に対してだけでなく、「ライオンは我が部族の守護霊だ」などといった、誰も見たことも聞いたこともない物事についても語ることができる。こうして伝説や神々、神話、宗教といったものは、認知革命に伴って現れた。
虚構のおかげで、我々は集団で物事を想像できるようになった。神話は家族や群れといった直接的に顔見知りである必要がある集団よりも大きなまとまりで柔軟に協力し合うということを可能にした。

虚構はゲノムの制約を克服する

虚構を持たない他の人類種や動物種は通常、ゲノムに指示された枠内の社会行動や文化を持ち、特定の環境では同じ種の動物は似通った行動をとる。しかしサピエンスは、集団が戴く虚構を変更することで、王権神授説を信じる臣民から国民主権を信じる国民へと姿を変えたりというように、必要に応じて迅速に振る舞いを改めることができる。サピエンスは遺伝子や環境の変更を伴わずに社会構造、対人関係の性質、経済活動、その他多くの行動を変化させることができた故に、何百万年も行動特性を変えることができなかったネアンデルタール人たちを何百人単位での争いにおいて打ち負かすことは容易だっただろうと思われる。

農業革命

狩猟採集社会の豊かな暮らし

このように他の人類種との競争に打ち勝ったサピエンスは地球上のあらゆる大陸へ生息域を拡げていったが、その当初は狩猟採集を中心とした生活をしていた。狩猟採集生活は、その日の食糧をその日の狩りで確保するため、不安定で危険な生活だったと想像されがちだが、実際にはカラハリ砂漠のような過酷な環境に暮らす狩猟採集民であっても平均で週に35〜45時間程度の労働で生活に必要な食糧その他を確保できた。狩りは3日に1回、採集もわずか毎日3〜5時間程度だ。これは現代の豊かな国の労働者が週に40〜45時間ほど働くのに比べると、快適で実りの多い暮らしだったと言える。
また食べ物の種類の面でも、農耕社会においては大半のカロリーが小麦やじゃがいも、稲といった単一の作物に依存していたが、狩猟採集社会においては様々なベリーやきのこ、果物やカタツムリやカメ、ウサギのステーキやタマネギなんかを食べたかもしれない。このような多様性のおかげで、狩猟採集民は必要な栄養素をまんべんなく接種することができた上に、災害などで特定の食物が手に入りづらくなっても、別の食物で賄ったり地域を移動したりといった柔軟な対応が可能だった。
さらに狩猟採集社会では感染症の被害も少なかった。天然痘や麻疹、結核などは主に家畜に由来し、また人口が密集していることで深刻化したが、狩猟採集民は犬くらいしか家畜を持っておらず、さらには少人数で広い大地を動き回っていたので、感染症に悩まされることは少なかった。
このように労働環境の快適さ、栄養素の多様性、感染症の少なさによって、古代の狩猟採集民は近代までの農耕民に比べて豊かな生活を送っており、乳幼児の死亡率なども低かったと考えられている。

農耕がもたらした繁栄と悲劇

人類は1万年ほど前から農耕を始めた。初めは作物を育てることで、狩猟採集の少しの足しにするだけのつもりだったかもしれない。しかし、作物の種は地面にでたらめに蒔くよりも地中深くに埋めた方が良いことや、畑の除草をしたり、水や肥料をやったりすることを学び、徐々に農耕にかける時間を増やしていった。
やがて生活が完全に農耕用にシフトした頃、かけた労力に応じて多くの食糧を得ることはできたが、生活は前述した通り不安定で過酷なものに変わった。しかし、その頃にはもう後戻りすることはできない。生産量が上がったことで、人々は今までより多くの子どもを作り、それによってより多くの食糧が必要となる。このように、人口の増加と農耕による食料生産は、正のフィードバックループをしながら発展していくことになった。
この悲劇は我々と遠く離れた古代の出来事と笑うことはできない。現代でも、大学を卒業した若者ががむしゃらに働いてお金を稼ぎ、35歳になったら退職して本当にやりたいことをやるのだと誓い、忙しい仕事に就くことだろう。いざ35歳になると、多額のローンを抱え、子どもたちを学校にやらねばならないと、あくせく働き続ける。農耕以前の社会に戻れないループは現代も続いている。

神話による社会の拡大

農耕民がもたらした余剰食糧によって、王や政府の役人、兵士、聖職者、芸術家、思索家といった非生産階級が生まれ、食べていけるようになってきた。人口は密集し、大きな村落から町へ、都市へと発展していった。この多くの人々が協力して生活することを可能にしたのも神話によるものだ。人々は偉大なる神々や母国といった神話を生み出し、必要とされていた社会的つながりを提供した。
協力と言うと響きは良いが、それらの協力が常に自発的だったとは限らないし、平等主義に基づいていることは滅多にない。殆どの協力のネットワークは迫害と搾取のためにあり、農民は食糧を供出させられるだけでなく、労役まで課された。
また、巨大な共同体を維持するために、財産の量など数理的な記録・表現を可能にする書記体系や、貨幣、宗教といった虚構までも考え出された。

科学革命

科学と宗教の違い

認知革命以降、人々は世界を理解するための知識を宗教に依存していた。しかし近代に成立した科学は、世界についての知識に対するスタンスにおいて宗教と根本的に異なる。宗教は「世界についての真理は、既に全て知られている」と主張した。真理は全て神や過去の賢者たちが既に持っており、聖典や口承といった形で我々に明かしてくれている。これに対して、科学は「我々は何も知らない」という立場に立つ。まだ誰にも発見されていない真理を明かすために探求していく、という姿勢こそ宗教と最も根本的に異なる点である。科学は近代において、帝国主義と資本主義という2つと深く結びつきながら発展していく。

科学と帝国主義の融合

当時、コロンブスが新大陸を発見したことで、世界が従来考えられていたような形とは全く異なることが知られ、世界地図は初めて「まだ知られていない領域」を描くようになった。新世界を探検していくにあたり、「まだ我々が何も知らない領域について調べ、知っていき、それによって征服する」ということをしていく必要があった。これが科学の姿勢を強化した。
また、科学はイデオロギー面で帝国主義を後押しした。ヨーロッパ諸国は新大陸の国家や部族を征服していくにあたり、「進んだ知識を持つ我々が彼らを教化していかなければならない」という使命を負っていると考え、征服事業を正当化しようとした。
このように、科学から帝国主義へ、帝国主義から科学へという正のフィードバックループを通して、両者は発展していった。

科学と資本主義の融合

科学にも帝国主義にもお金がかかる。研究費や人件費、新大陸へ渡航する船を作り、兵力を派遣して現地を征服し、その地で収集したものを持ち帰るには、膨大な経費が要る。
これらを賄う調達を可能にしたのが「信用」という概念だった。銀行や投資家がお金を預かり、そのお金を別の人に貸し出す時、実際に保有している現金の額よりも多くの金額を貸し出すことができる。これは「将来、貸し出したお金がより多くのお金になって返ってくる」ことを確信できるから可能になったことだ。
そして、そのように「将来に期待して良い」と人々に信じさせたものが帝国主義と科学だった。資金を調達して新世界を探検し、土地を征服したり現地の特産品を持ち帰ったりすることで、莫大な利益を上げることができる。また科学に投資することで、より良い技術を生み出す。こうして帝国主義と科学は信用取引を加速させ、それによって帝国主義と科学もまた必要な経費の調達を容易にすることで加速した。ここでも科学・帝国主義と資本主義が正のフィードバックループを経て発展していった。

文明は我々を幸福にしたのか

資本主義の負の側面

資本主義と科学の産物、産業革命によって人類の生活は一変した。農村で作物を育てていた人々が都市に出て工場で働くようになった。その過程で資本主義の負の側面が顕在化していることにも注意を払わねばならない。
工場や鉱山では過酷な労働環境で奴隷のように使われ、命を落とす労働者も少なくなかった。また農村の家族やコミュニティが解体され、人々には新たに「国家・国民」「個人」という神話があてがわれた。また人間だけでなく家畜や動物の視点に立てば、効率的な生産のため狭い場所で飼育され、限界まで搾乳される雌牛や絶え間なく卵を生み続けるよう育てられた鶏、最短期間で育てて殺される肉牛など、産業革命によって彼らの一生は絶望的なものへと変貌した。
もちろん、技術の進展によって身の回りは安全になり、理不尽な理由で殺されることは減ったし、医療の発展で乳幼児死亡率の低下や平均寿命の上昇といった改善も見られる。果たして、文明の発展は我々を幸せにしたのだろうか。

主観的幸福

幸福が増大したかどうかを論じるためには、まず幸福を計測しようとする試みについて触れなければならない。よくあるやり方として、質問紙などをもとに人々に幸福度を尋ね、それをその人の属性や状況などを鑑みながら分析するという方法がある。この方法による研究は既に多くなされており、いくつかの知見も認められている。
まず、このように計測された主観的幸福は客観的条件にはあまり左右されないということだ。例えばその人の裕福さは、一定水準までなら上昇が幸福度の増大に寄与するが、一定水準を超えたあとは殆ど相関しなくなる。病気は発見された当初はその人の幸福度を大きく下落させるが、長期的な苦悩の種となるのはそれが悪化の一途を辿ったり、継続的に心身を消耗させるような痛みを伴ったりする場合に限られ、そうでない場合はいずれ健康な人と同じ水準まで主観的幸福が回復する。
また、家族やコミュニティは富や健康よりも幸福感に大きな影響を及ぼすことも認められている。強い絆で結ばれた家族を持つ人は、家庭が崩壊した人よりも遥かに幸せであるという。結婚生活はとりわけ重要だ。
だが結局、主観的な幸福は客観的な条件というよりも、その人が抱く期待と現実とのギャップによって上下する。牛車が欲しいと思っていた人がそれを手に入れた時は喜ぶが、新車が欲しいと思っていた人が中古車しか手に入れられなかった時は落ち込むだろう。文明が発達して物質面の劇的な改善を経た現代において、幸福になることは難しくなっている。むしろメディアや広告産業によって満足することのハードルが上がりきり、ますます状況は困難になっている。

化学から見た幸福

一方で、幸福とは脳内の化学反応であるという立場もある。人は嬉しかったり悲しかったりする出来事に遭遇した時、それそのものによって幸福になっているのではなく、脳内で反応するホルモンが分泌されることによって幸福になっているのだという立場だ。
人間の体内の生化学システムは、幸福の水準を比較的安定した水準に保つよう設定されている。永遠に幸福なホルモンが分泌され続けることはないし、その逆もない。また、設定温度が25℃の空調システムがあれば20℃のものもあるといった具合に、人間の幸福度システムが落ち着く温度の度合いも個人差がある。陽気な生化学システムを生まれ持った人は、人を阻害する大都会で生活していても糖尿病の診断を受けても十分に幸せでいられるが、陰鬱な生化学システムを生まれ持った人は、宝くじがあたってもオリンピック選手のように健康な身体を持っていても、一定以上に幸福を感じることはできないかもしれない。
この立場から言えば、歴史の出来事の積み重ねは人間の生化学システムを変容させることはなかったため、文明の発展は人間の幸福に影響を及ぼさなかったと言うこともできる。ただし、歴史によって唯一重要な変化があるとすれば、我々が生化学システムに主観的幸福を制約されていることに気付いたという点だ。このことによって、生化学システムに介入することで我々は幸福と感じる度合いを操作することができるようになった。

幸福を規定するもの

生化学的な幸福という視点に対する興味深い反論がある。例えば子どもの養育にまつわる労働について、人々はおむつを替えたり食器を洗ったりといった1つ1つの仕事は相当に不快な作業であると評価する。だが大多数の親は、子どもこそ自分の人生の幸福の源泉であるとも断言する。つまり幸福とは、快適な時間が不快な時間を上回るということではなく、人の人生全体が有意義なものであると見なせるかどうかにかかっている。ニーチェの言葉にもあるように、あなたに生きる理由があるのならば、どのような生き方にもたいてい耐えられる。
人生において遭遇する快い経験や不快な経験に対してどのような意味付けをするかは、文化や時代によって大きく異なるだろう。人生を分刻みで逐一査定すれば、中世の人々は現代の人々よりも確かに悲惨な状況にはあったかもしれない。しかし、死後に楽園に召され、永遠の至福が訪れると信じていたのならば、信仰を持たない現代人よりもずっと大きな意義と価値を自らの人生に見出していたかもしれない。
つまり、幸福とは人生の意義に対する個人的な妄想を、時代や文化ごとに異なる「こうすることが幸福である」という支配的な妄想と一致させることなのかもしれない。これは幸福とは自己欺瞞に過ぎないという、なんとも気の滅入る結論だ。

仏教哲学が論じる幸福

主観的幸福でも、生化学的幸福でも、自己欺瞞的幸福でもない、全く異なる幸福を論じるものもある。その中でも仏教は2500年に亘って幸福の本質と根源について体系的に研究してきた。
仏教によれば、大抵の人は快を幸福、不快を苦痛だと感じる。結果、自分の主観的な感情の重要性を認め、ますます自分の感情を満足させる快を求めるようになる。しかし感情とは浜辺に打ち寄せる波のように、刻一刻と変化するものである。それに自分の幸福を依存させていると、仮にいっとき幸福を得られたとしても、次の瞬間にはまた元に戻ってしまい、永遠に幸福を求めて苦しむことになる。そうではなく、人間は自分の感情がつかの間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめた時に、真の幸福、安らぎが得られるという。

超ホモ・サピエンスの時代へ

ここまで、歴史を神話や虚構といった「生物学的・物理学的なメカニズムに制約されながらも、そこに収まりきらないもの」の積み重ねとして描いてきたが、21世紀を迎えた現在、生物学的な制約を超えることができる水準までテクノロジーが発展している。

遺伝子工学

遺伝子技術によって、我々は生物学的条件を脱した存在を作り上げることが可能になった。ブラジルのバイオ・アーティスト、エデュアルド・カッツは2000年に、フランスの研究室に声をかけ、謝礼を払うので輝くウサギを作ってほしいと依頼した。その研究室の科学者たちは、蛍光色に輝くクラゲの遺伝子をウサギの胚に移植することで、注文通りのウサギを作り上げた。
遺伝子工学は現在、倫理的、政治的、イデオロギー上の問題を抱え、大々的な研究は止められている。人権擁護派は、超人を生み出して人間たちを奴隷にすることや、恐れを知らない兵士や従順な労働者を作る独裁政権の登場などを恐れている。あまりに多くの機会が急速に拓かれ、我々がそれらを安全に運用する能力の方が不足しているというのが一般的な印象だろう。
遺伝学者は今いる生き物の改変だけでなく、過去に存在していた生き物の復活も願っている。マンモスを復活させるだけでなく、ネアンデルタール人を復活させて人間についての研究に役立てることまで夢見ている。

サイボーグ工学

現代の科学者は遺伝子を改造するだけでなく、非有機的な器官を有機的な器官と接続させる生物、いわゆるサイボーグも作り出すことができている。ある意味で、メガネやペースメーカーを装着した我々もサイボーグの一種と言うこともできるし、戦争で手足を失った人に提供される義肢や、視力を失った人に視覚情報を脳へ直接送信するデバイスまでも開発されている。
ノースカロライナ州にあるデューク大学の研究者たちは、アカゲザルの脳に電極を埋め込み、離れた場所にあるバイオニック・アームを思考だけで操作できるようにした。その結果、アカゲザルは生来の2本の腕だけでなく、3本目のバイオニック・アームさえも自在に動かすことができるようになった。
この分野で最も革新的な領域は、脳とコンピュータを直接結ぶ双方向型のインターフェースの開発だ。もしこれが成功し、脳が直接インターネットに繋いだらどうなるか?もしくは、複数の脳をつなげあわせ、いわばインター・ブレイン・ネットを作り上げたらどうなるのか?別の脳が保有する記憶を自分自身の記憶と同じように思い起こすことができるかもしれない。サイボーグ技術は我々の身体を拡張し、認知形式やアイデンティティさえも変容させうる。そうなった時、もはやそれは人間ではないどころか、生物ですらないだろう。

新しい生命

完全に非有機的な生命を生み出すという方面の研究も進んでいる。その代表例が、独自に進化することができるコンピュータプログラムだろう。有機体という基盤を飛び出し、広大な非有機体の世界へ飛び出した生命を、我々が的確に想像することはできない。それらは感情、欲望、認知形式といった面でも我々と全く異なる新しい生命になるだろう。私、あなた、男性、女性、愛、憎しみといった、我々の世界に意義を与えるあらゆるものが意味を持たなくなるとしたら、そして我々自身がその世界に旅立つことができる可能性があったとしたら。従来の制約から完全に開放された新しい世界で考えなければならないのは、「我々は何になりたいのか」ではなく「我々は何を望みたいのか」なのではないか。

感想

要約だけで8000文字になってしまったが、それでも本書の本当に一部を抜き出しただけに過ぎないと感じている。
全体を通して、この本の前に読んだ『銃・病原菌・鉄』と重なり合う部分と独自の部分がバランスよく書かれていて、非常に刺激的な内容だった。

よく、この本を読んだ人に要約を尋ねると出てくるのが認知革命の節で説明されている内容だ。現生人類、ホモ・サピエンスがネアンデルタール人との生存競争に打ち勝つ要因となったのが、認知革命によって獲得した「虚構を語る力」であるというものだ。このアイデアは本書の大半を通して貫かれており、要所要所で出てくるため、本書の要約として語られるにふさわしいと再確認した。
しかし、本書の内容はその中心的アイデアだけに収束させられない広範な言及に溢れている。特に後半、科学革命の節から近代史以降を描く段になると、科学と帝国主義や資本主義との共犯関係、そして「文明は人類を幸福にしたのか」という問い、さらには未来に起きうる新たな展開についての筆致はSFを思わせた。(SFを描きたいと思う人は本書を読むべきだ。なぜなら物語の設定を考えるにあたって有益な示唆に富んでいるから。)

幸福は自分が決めるのか、脳内の化学反応なのか、それとも文化や時代に規定された価値観に合わせた自己欺瞞なのか。はたまた、それらから脱した境地にこそ真の幸福があるのか。本書では結論は避けられているが、個人的には「生来の生化学システムや支配的な文化・価値観に制約された範囲内で、自分で選択していくもの」という印象に受け取った。(この回答自体が自己選択を重視する個人主義の神話に毒されていると言えるのだが。)

最後に、印象に残った一節を抜き出して終わりたい。
「過去に対する私たちの見方が、直近の数年間の出来事にいかに歪められやすいかに気づけば、はっとさせられる。」
本書は2014年に書かれたが、2023年に文庫版が出た時にはコロナ・パンデミックやロシアのウクライナ侵攻によって、世界の状況はまた一変してしまっている。(その点について言及している文庫版あとがきにも要注目だ。)
著者は「過去に対する私たちの見方が」と言っているが、未来に対する見方についても同様だろう。その時、自分が経験した直近の出来事だけでなく、サピエンスが経験してきた数万年の歳月を知っておくことで、現代社会に規定されたものの見方がいかに一時代の特殊なものに過ぎないのかをわきまえることができるようになるのではないか。それこそが歴史を知ることの意義であり、本書を読むことの価値であるとも言える。

サピエンス「全史」と銘打つに恥じない名著だった。最終章の予言が生きているうちにどこまで実現するのかの答え合わせは、人生を通して見ていくことになるのだろう。その時、ここで書いた内容を読み返しながら笑うことになるだろうことが楽しみだ。

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