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戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【6月14日~20日】


戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。


6月14日 明智秀満、自刃

天正10年(1582)6月14日(旧暦)、明智光秀(あけちみつひで)の娘婿・明智左馬助秀満(さまのすけひでみつ)が自刃。光秀の敗北を知った秀満は近江(現、滋賀県)安土(あづち)城を出て、坂本(さかもと)城に向かう途中、敵と遭遇。愛馬で湖水を渡り、帰城した伝説が残ります。秀満は城内の名刀名物類を攻め寄せた堀直政(ほりなおまさ)に託し、自刃しました。

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6月15日 安土城天主、炎上

天正10年(1582)6月15日(旧暦)、安土城天主が炎上、焼失しました。理由は織田信雄(おだのぶかつ、信長の次男)、または夜盗の放火説があるものの、不明です。ただし炎上したのは天主、本丸付近のみで、その後、信長の孫・三法師(さんぽうし)が居城とするなど、天正13年頃まで城として機能しました。

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6月16日 信長、上月城への援軍認めず

天正6年(1578)6月16日(旧暦)、織田信長は羽柴秀吉(はしばひでよし)に、播磨(現、兵庫県)三木(みき)城攻略に全力を注ぐよう命令。この時、織田に属する尼子勝久(あまごかつひさ)らの上月(こうづき)城が毛利(もうり)軍に攻められており、秀吉は上洛(じょうらく)して救援を信長に求めますが、許されず、尼子勢は城と運命をともにします。

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6月17日   斎藤利三、処刑

天正10年(1582)6月17日(旧暦)、斎藤利三(さいとうとしみつ)が処刑。明智光秀の家老でした。幕府奉公衆(ほうこうしゅう)出身の利三は斎藤義龍(よしたつ)、稲葉一鉄(いなばいってつ)に仕えて後、光秀の重臣に。丹波(現、京都府・兵庫県)黒井(くろい)城主を務めます。山崎(やまざき)の戦い後、潜伏先の近江で捕縛。なお娘の福(ふく)は、のちに春日局(かすがのつぼね)となりました。

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6月18日 山崎吉家、直江実綱に返信

永禄8年(1565)6月18日(旧暦)、山崎吉家(やまざきよしいえ)直江実綱(なおえさねつな)に返信。上杉輝虎(うえすぎてるとら)重臣の直江が、1ヵ月前に起きた将軍足利義輝(あしかがよしてる)の変事について朝倉(あさくら)家重臣の山崎に照会したのに対し、山崎は義輝の死を悼(いた)むとともに、弟の一乗院覚慶(いちじょういんかくけい、足利義昭〈よしあき〉)は無事であると伝えました。

6月19日   高天神城陥落、織田軍は馬首を返す

天正2年(1574)6月19日(旧暦)、遠江(現、静岡県西部)高天神(たかてんじん)城が陥落。徳川家康の要請で織田信長は、高天神城後詰(ごづめ)のため遠江今切(いまぎり)の渡しに至ります。が、城内の小笠原氏助(おがさわらうじすけ)の寝返りで落城、武田勝頼(たけだかつより)の手に渡ったことを知って、やむなく軍を三河(現、愛知県東部)吉田(よしだ)城へと引き上げました。

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6月20日 近衛前久、本能寺の変関与を疑われる

天正10年(1582)6月20日(旧暦)、織田信孝(のぶたか、信長の三男)が元太政大臣の近衛前久(このえさきひさ)を成敗(せいばい)する旨を洛中に通達。本能寺の変の際、明智軍が近衛邸から二条御所を攻撃したため、光秀への関与を疑われました。前久は変後に出家し、徳川家康を頼って浜松に下向(げこう)することで難を避けています。

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【6月の戦国武将生没日】

6月2日・織田信長没
6月2日・織田信忠没
6月2日・森成利(蘭丸)没
6月2日・村井貞勝没
6月2日・斎藤利治没
6月2日・三村元親没
6月3日・鍋島直茂没
6月4日・真田昌幸没
6月4日・清水宗治没
6月4日・伊達成実没
6月5日・島津家久没
6月8日・安藤守就没
6月10日・斎藤義龍誕生
6月12日・小早川隆景没
6月13日・明智光秀没
6月13日・溝尾茂朝没 異説あり
6月13日・松田政近没
6月13日・竹中半兵衛没
6月14日・毛利元就没
6月14日・明智秀満没
6月16日・阿閉貞征没
6月17日・斎藤利三没
6月17日・堀尾吉晴没
6月24日・加藤清正誕生
6月24日・加藤清正没
6月24日・可児才蔵没
6月24日・温井景隆没
6月28日・真柄直隆没
6月28日・真柄直澄没
6月28日・遠藤直経没

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