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戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【5月10日~16日】

戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。

5月10日 島津義久が領国維持を命令

天正16年(1588)5月10日(旧暦)、島津義久(しまづよしひさ)が家臣の新納忠元(にいろただもと)に通知。在京中の状況と、帰国が近いことを知らせました。また近日中に弟の島津義弘(しまづよしひろ)が上洛(じょうらく)するにあたって、留守中の島津領国は、老臣たちが合議の上で、堅固に維持することを命じています。

5月11日 斎藤義龍が没

永禄4年(1561)5月11日(旧暦)、斎藤義龍(さいとうよしたつ)没。長良川の戦いで父・斎藤道三(どうさん)を討ち、美濃(現、岐阜県)国主となった義龍は、内政は6人の側近に補佐させ、尾張(現、愛知県西部)の反織田信長(おだのぶなが)勢力と手を結び、信長の侵攻を退けます。また姓を一色(いっしき)に改め、前守護の土岐(とき)氏を家格で凌(しの)いだ矢先に急死しました。

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5月12日 織田信長が誕生

天文3年(1534)5月12日(旧暦)、織田信長誕生(異説あり)。父の信秀(のぶひで)は尾張下四郡の守護代・清須(きよす)織田家の家老から勢力を拡大。その後、家督を相続した信長は、舅(しゅうと)の斎藤道三の後ろ盾も得て尾張統一に邁進し、さらに「天下布武(てんかふぶ)」へと歩みを進めていきます。

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5月13日 織田信長が長篠城後詰に岐阜を出陣

天正3年(1575)5月13日(旧暦)、織田信長が息子信忠(のぶただ)らと岐阜城を出陣徳川家康(とくがいえやす)の要請を受け、武田勝頼(たけだかつより)が囲む三河(現、愛知県東部)長篠(ながしの)城の後詰(ごづめ)のためでした。この日は尾張の熱田(あつた)神宮に布陣。社殿の荒廃ぶりを見て、御大工の岡部又右衛門(おかべまたえもん)に造営の件を命じています。

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5月14日 佐々成政が自刃

天正16年(1588)閏5月14日、佐々成政(さっさなりまさ)が自刃。成政は織田信長の黒母衣衆(くろほろしゅう)出身で、賤ヶ岳(しずがたけ)及び小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉(はしばひでよし)と敵対。九州征伐の功で肥後(現、熊本県)を得るも、国衆一揆(くにしゅういっき)の責任を問われ、尼崎で自刃しました。一揆の遠因は秀吉にあったともいいます。

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5月15日 長宗我部盛親が処刑

慶長20年(1615)5月15日(旧暦)、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が処刑。関ヶ原(せきがはら)合戦後に改易(かいえき)され、大坂夏の陣では八尾(やお)の戦い藤堂高虎(とうどうたかとら)勢を撃破しています。大坂落城後、捕縛。「折あらば再起を果たし、恥をすすぐため」にあえて自刃せず、京都六条河原で斬られました。

長宗我部

5月16日 鳥居強右衛門が処刑

天正3年(1575)5月16日(旧暦)、鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)が処刑。武田勝頼が攻める長篠城から救援を求め、強右衛門が脱出。岡崎(おかざき)城で織田・徳川の大軍の来援を確認し、長篠城に戻る途中、武田方に捕えられます。城に向かって「援軍は来ない」と言えと武田方に強制されますが、強右衛門は城に向かい「援軍が来るぞ」と叫んで、城内の士気を高めました。強右衛門は磔(はりつけ)にされたと伝わります。

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【5月の戦国武将生没日】

5月2日・織田信孝没 異説あり
5月3日・京極高次没
5月5日・嶋左近誕生 異説あり
5月6日・大友宗麟没
5月6日・北条綱成没
5月6日・後藤又兵衛没
5月6日・木村重成没
5月6日・増田盛次没
5月6日・薄田兼相没
5月7日・高坂昌信没
5月7日・小笠原秀政没
5月7日・真田信繁没
5月8日・豊臣秀頼没
5月8日・毛利勝永没
5月8日・大野治長没
5月8日・真田大助没
5月9日・安宅冬康没
5月10日・平手政秀誕生
5月11日・斎藤義龍没
5月12日・織田信長誕生 異説あり
5月12日・佐久間盛政没
5月14日・佐々成政没
5月14日・榊原康政没
5月15日・長宗我部盛親没
5月16日・鳥居強右衛門没
5月19日・今川義元没
5月19日・足利義輝没
5月19日・長宗我部元親没
5月19日・真田幸隆没
5月21日・山県昌景没
5月21日・馬場信春没
5月22日・蜂須賀正勝没
5月24日・伊達政宗没
5月27日・堀秀政没

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