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【掌編】その通りでしょ?
母の家は落ちつく。
父が購入したのだから父の家、と言うべきなのかも知れないが、もうこの世からいなくなって久しい人の名をいつまでも冠させておくのも、なんだか家に忍びない。それになにより、いまこの家に住んでいるのは母なのだ。
「最近ちいちゃんに会わせてくれないわよねえ」
古い箪笥、年季の入った畳、何十年経つか知れない染みの残る炬燵布団、落ち着いた風合いの塗り壁と化粧柱、そんな雑多なものたちから発せられる雑多な匂い。ここは私の家でもある。
「仕方ないでしょう、こんな御時世なんだから」
あまなつの分厚い皮をめくる。そんな私の指の皮ももう随分と分厚くなってしまった。
「『みてね』があるでしょ」
ラジオ代わりに垂れ流すのには55インチは勿体ない。いざ画面を見ても、映し出されるのは頼りないことばかり言う政治家のアップと、毒にも薬にもならない愚痴をこぼすゲストたちの困り顔で、いずれにしても55インチは勿体ない。
「ほんとに便利ですけどね、やっぱり本物がいいわ」
あまなつの分厚い皮をめくる。母の指は私のそれより小さく、でも力強い。老いた皺だらけの硬く乾いた皮膚は長年の風雨を耐え抜いた頑強な岩肌を想わせる。
「でもうつしちゃ悪いものね」
「何言ってんの、お母さんのほうが心配なんだからね」
母は白筋も気にせず果肉を頬張る。ゆっくりと動く口元にも無数の皺が刻まれている。私は思わず自分の唇に指を触れる。うん、まだ大丈夫。
「私はいいのよ、もうほんとに十分生きたし、未練なんかありません」
でもいつか必ず、大丈夫じゃなくなるのだ。
ふと視線を移すと、妙なものが目に入った。妙なもの、と言ってもそれはどう見ても炊飯器だった。一から百まで炊飯器。
「なによこれ、炊飯器じゃない」
「ああ、これ」
母はニコニコと笑いながらそれを見つめる。中には落ち着いた色合いの毛糸や布地、針刺し、その他細々した裁縫道具類が詰め込まれている。
「なんで炊飯器なんか使ってるの」
「こないだお友達の家にお呼ばれして行ったときにたまたま見つけて、捨てるんだって言うからもらってきたのよ」
くすくすと笑う。自分の胸の鼓動が聴こえる。
「もったいないでしょ」
「いやいや、いらないでしょう、信じられない」
私は思わず眉間に皺を集めつつ、ほっとする。
「昔はもっとものを大切にしましたよ」
そんなこと、わかっている。
「昔とは違うのよ。いまは物が溢れてるんだから、いらないものはさっさと捨てないといくらでも溜まっていくでしょう」
時代が違うのだ。
「あんなのもあるのよ」
得意げに微笑みながら、母は棚の上を指差す。電気ケトルからは優しげな黄色い花が咲いていた。私はシュールだなあと思いながらそれを見つめる。わずかな間のあとで、母が言った。
「あたしがボケたら、ひと思いに殺してちょうだいね」
一瞬、息の止まる心地がした。
時代は移ろう、時は進み続ける、そんなこと、母もわかっている。孫たちと一緒に見たYoutubeの動画を思い出す。ベルトコンベアーの上を転がっていくみかんの群れ。
私は思わず笑ってしまう。
「無茶言わないでよ」
千秋は不良品として弾かれるみかんを指差し、はしゃいでいた。
「やだ、雨」
ビニル傘を一本借りて、帰路を急ぐ。
言えなかった。婿さんが癌と診断されたこと。いまさら母に、苦い思い出を加える必要なんかないじゃない。ショックで、本当にボケたらどうするのよ。
でも、母なら何か教えてくれるかも知れない。私に言えること、私たちにできることを、母なら何か知っているかも知れない。
考え事をしながら通り過ぎたゴミ捨て場に見覚えのあるものを見た気がして、道を戻る。吸い寄せられるようにして向かうと、やはりそれは炊飯器であった。しゃがんでじいっと見下ろす。まだ新しいタイプだ。見た目には何も悪いところは見つからない。でも電気系統のどこかがしっかりとやられてしまって、もうどうすることもできなくなったのだろう。修理に出すくらいなら、新しいのを買うほうが断然易い。
――いまは物が溢れてるんだから、いらないものはさっさと捨てないといくらでも溜まっていくでしょう
「その通りでしょ?」
私はしばらくの間、答の返ってこないその問と一緒に、静かな雨の降る街に佇んでいた。
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