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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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2023年3月の記事一覧

【歴史小話】江戸時代の暦

江戸時代の町人の年収の計算を求める際に354日という日数が出てきた。 最初は記載ミスかと思ったのだが、調べてみると江戸時代の暦が関係することが分った。 裏を返せば、150年前は当たり前だったことが今は分からなくなっているということが、また一つ出てきたということで、江戸時代の暦を改めて調べてみた。 太陰太陽暦 江戸時代の暦は太陰太陽暦といって、月の運行によって1ヶ月の長さを決めていた。 月は平均29.53日で地球を1周することから、一ヶ月には大の月の30日と小の月の29日

#28 なぜ箱根は宿場設置が遅れたのか?

街道付け替え 江戸時代以前の中世の東海道では、箱根山を越えるルートは現在の箱根八里ではなく、「湯坂路(ゆさかじ)」と呼ばれる尾根伝いの道が使われていたそうだ。 このルートで京から東国に下る場合、箱根峠を越え芦ノ湖を経て、鷹巣山、浅間山、湯坂山の尾根を伝って箱根湯本へ下る山越えのコースだったそうだ。 江戸時代の東海道の道筋は尾根筋から谷筋に経路が変更され、東南側の須雲川の谷間に新しい東海道を築かれた。 箱根路のルート設定の意味合いについては、険しい箱根山を江戸防衛の要として

【江戸小景】高輪の景色と二十六夜待

高輪と言えば最近だと、2020年3月に開業した高輪ゲートウェイ駅が記憶に新しいが、私の子供の頃だと記者会見が開かれる会場として高輪プリンスホテルをよく耳にした記憶がある。 畦道の長い道? 高輪は現在の港区南東部で、北と西は芝、南は品川と隣接する地域だそうだ。 地名の由来は、「高い縄手(畦道)の略」など諸説あるそうだ。 縄手とは「一本の縄のように真っすぐ伸びた道」を意味するそうだ。 松岡芭蕉の俳句に出てくる「天津縄手」が私にとっては馴染み道だが、天津縄手は周囲一面に田んぼが

【歴史小話】舂米屋と炭薪仲買

舂米屋と炭薪仲買 「舂米屋(つきごめや)」は、米穀問屋・米屋から仕入れた米を舂米屋精米して白米にする町のお米屋さんだ。 山室恭子氏の「大江戸商い白書」によると、舂米屋が江戸商人の名簿資料に初めて登場したのは1851年(嘉永4年)からだそうだ。 白米を庶民が一般的に食べるようになったのは、江戸時代中期頃からのようだが、江戸や大阪などの都市部の住人は白米を好んで食べ、ビタミンB1不足で脚気になって苦しんだという。 いわゆる「江戸煩」だ。 1851年(嘉永4年)の「諸問屋名前帳」

【歴史小話】大家という江戸のビジネス

大家という職業 落語に出てくるセリフに「大家といえば親も同然、店子といえば、子も同然」というものがあるが、江戸時代の大家はどのような存在だったのだろうか? 大家は、地主の代理人あるいは代行者という職業だった。 現代で言えば、賃貸物件の管理人的存在になる。 大家という職業が発生した背景には、江戸の町の地主の多くが、江戸から遠く離れた京都や大坂に住む不在地主だったことが大きく影響している。 ところで、大家になるためには株(家主株)を買う必要があったそうで、株取得するには大凡

#27 江戸時代の小田原宿

江戸時代の小田原  江戸時代になると小田原は、譜代大名の大久保氏、阿部氏、稲葉氏などが治める小田原藩の城下町として栄えた。  小田原宿は、東海道五十三次の9番目の宿場として、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として設置された。日本橋を出立した人の多くが2泊目の宿として利用した宿場でもある。  理由は、天下の剣「箱根山」を越えるためには、小田原で泊まらざるを得なかったのである。また江戸からの距離も20里27町(81.5km)あり、1

【江戸小景】芝浦の海

ウォーター・フロント 超高層ビルが天に向かって伸びるウォーター・フロント。芝浦は再開発により目覚ましく発展してきた臨海部の街だ。 四方を運河が囲み、マンションや大企業のビル、公共施設などから構成された「新しい街」。 しかし、ここは150年前までは海だった場所。 田町付近を走る東海道線も江戸時代以前は海岸線沿いの海だった。 それよりも東の芝浦は、今は運河を有する陸地だが、江戸時代までは干潟があったところ。 芝浦という地名が示す通り、芝の入江だった。 日暮御門と干潟 16

【歴史小話】大工の家計

江戸時代の市井の人たちはどんな生活をしていたのだろうか? 江戸時代、火事の多かった江戸では大工は花形の職業とされ、比較的賃金の高い職種だったと言われているそうだ。 武士や庶民の家計については、大石学氏監修の『江戸のお勘定』でいくつか紹介があるが、その中には大工の家計も紹介されている。 おそらく『文政年間漫録』の記録が基になっていると思われるが、『文政年間漫録』には大工の暮らしぶりが事細かに書かれているそうだ。 大工の収支 『江戸のお勘定』での大工の家計では、本人と妻、子供

#26 後北条氏と小田原

後北条氏の小田原進出と領国  かつて関八州を統一した後北条氏の城下町として繁栄した小田原は、関東への出入り口として重要な拠点であった場所だ。  後北条氏の本拠地となる小田原は、始祖となる伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞/北条早雲)が1495年(明応5年)に大森藤頼を討ち小田原城を奪取したことにより始まる。  ただし、盛時は相模進出後も伊豆国の韮山城(静岡県伊豆の国市)に在城しており、後北条氏の居城になったのは二代目の氏綱以降とされる。 その時期は氏綱が家督を継いだ1518年(永正

【歴史小話】江戸時代の時刻「不定時法」と時を刻んだ「和時計」

七つ立ち 民謡「お江戸日本橋」では、「お江戸日本橋七つ立ち」という歌詞が登場する。 これは、旅人が江戸を出立する時刻のことを歌っており、暁七つの時刻に出発していたというのことなのだそうだ。 暁七つというと現代の時刻の考え方だと午前4時ということになるが、江戸時代までの日本の時刻の刻み方はそうではない。 不定時法 江戸時代の日本では、不定時法と呼ばれる時刻制度が使われていた。 不定時法では1日を昼と夜に分けてそれぞれを6等分にし、その一つの長さを1刻(いっとき)と呼んでい

【歴史小話】江戸の屋敷面積

江戸の都市構成 江戸時代、江戸の土地の約70%は武家地であり、残りの30%に寺社地、町地と百姓地を含む代官支配地があったそうだ。 正井康夫氏の「二万分の一”江戸の都市的土地利用図”」によると、江戸の武家地の内訳は、「大名屋敷地2,771ヘクタール(35.6%)、一般武家屋敷地1,878ヘクタール(24.1%)」だったそうで、約600あった大名屋敷(上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷など)で江戸の三分の一以上の土地を占めていたことになる。 江戸城の内郭 江戸の中心部には江戸