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#26 後北条氏と小田原

後北条氏の小田原進出と領国

 かつて関八州を統一した後北条氏の城下町として繁栄した小田原は、関東への出入り口として重要な拠点であった場所だ。
 後北条氏の本拠地となる小田原は、始祖となる伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞/北条早雲)が1495年(明応5年)に大森藤頼を討ち小田原城を奪取したことにより始まる。
 ただし、盛時は相模進出後も伊豆国の韮山城(静岡県伊豆の国市)に在城しており、後北条氏の居城になったのは二代目の氏綱以降とされる。
その時期は氏綱が家督を継いだ1518年(永正15年)もしくは盛時が死去した翌永1519年(永正16年)以降とみられている。

 以後、氏康、氏政、氏直と4代に渡って小田原城は後北条氏の居城となり、豊臣秀吉の小田原征伐で秀吉の軍門に下るまで、小田原は後北条氏の本拠地として栄えた。

 後北条氏は、初代盛時の時代に伊豆と相模を平定し、二代目の氏綱が武蔵半国、下総の一部とするが半国まで領国を拡大させた。
 三代目の氏康以降、領国は武蔵、上野、下野、上総、下総などで広がりをみせ、1586年(天正14年)時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野南半・下野西半、駿河・常陸の一部に及んだとされる。

 ところで、後北条氏が保持した経済力はどの程度だったのだろうか?
 後北条氏の石高については、上記の勢力範囲を押さえていたことからすると、16世紀終盤の頃は220万石から240万石の石高を保有する大名だったと考えられる。

小田原の本町界隈

後北条時代の小田原の町場

 盛時が小田原を奪取する前の小田原は、大森氏頼、藤頼父子によって城が築かれていたが、大森氏時代の小田原はまだ城下町と呼びうるような都市構造にはなっていなかったようだ。
 後北条氏が小田原を本拠地として以降、二代氏綱、三代氏康と代を重ねて小田原を本拠とし続けることによって、それまでの城下集落は、戦国城下町へと発展を遂げたと考えられる。

 後北条氏時代の小田原に最盛時どのくらいの人口があったかは、史料がなく不明とのこと。
 小田原市のデジタルアーカイブでは、「他の戦国城下町の例から推して、六千人はいたと思われる。」とあり、「最近の発掘調査によって、城下町には石組み水路のよる水道が通っていたことが明らかになった。」と記されており、「戦国時代としては高度に発達した都市」だったようだ。

後北条氏が築城した惣構

 小田原城の最大の特徴は広大な外郭にある。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の秀吉の大坂城の惣構を凌いでいた。
 後北条氏は1569年(永禄12年)に武田信玄に小田原城を攻められたことで未曾有の小田原城の大改修を始めたといわれているが、年代と普請内容については未だに不明な部分が多いそうだが、1569年から1589年(天正17年)に渡って何度も普請が重ねられたとされており、終盤は城下町と農村を城内に入れることで秀吉との全面対決を意識した外郭を作り上げている。

後北条氏の伝馬制度

 戦国時代になると各地の戦国大名等は、本城と支城や各地の村々を結ぶ街道を整備して伝馬制を施行するようになった。伝馬制は、街道の一定距離ごとに設置した宿場に逓送用の馬を常備し、宿郷の住民に伝馬役を賦課したものだ。
 北条氏綱はこれを伝馬制度として確立した。後北条氏領国内の幹線道路に面する町村を伝馬宿として編成して伝馬役を義務付けたが、以下の条件を付けることで不正な伝馬負担の強要を禁止した。

  • 氏綱の印である虎印判の手形を持たないものは勝手に伝馬を仕立ててはならない

  • 虎印判を持っていても発給日から三日経っていれば無効

 違反者は逮捕して小田原か玉縄に連行するよう命じた。
 手形は後に虎印判状から馬の姿を刻した伝馬専用手形になったが、何事も書き付けで済まされることが多かった時代に印を用いた公文書で偽造を防いだことは北条氏の先見性のあらわれといえる。

酒匂川と箱根の山々

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