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【江戸小景】高輪の景色と二十六夜待

高輪と言えば最近だと、2020年3月に開業した高輪ゲートウェイ駅が記憶に新しいが、私の子供の頃だと記者会見が開かれる会場として高輪プリンスホテルをよく耳にした記憶がある。

畦道の長い道?

高輪は現在の港区南東部で、北と西は芝、南は品川と隣接する地域だそうだ。
地名の由来は、「高い縄手(畦道)の略」など諸説あるそうだ。
縄手とは「一本の縄のように真っすぐ伸びた道」を意味するそうだ。
松岡芭蕉の俳句に出てくる「天津縄手」が私にとっては馴染み道だが、天津縄手は周囲一面に田んぼが広がるところに通っていた畦道。
高輪の場合は、江戸湾の海岸沿いを通る真っ直ぐな田舎道が元々の姿だったのだろう。

大木戸

高輪は、明暦の大火(1657年)のあと、大名が下屋敷を構えるようになったという。

1710年(宝永7年)になると、それまで芝にあった大木戸が高輪に移された。現在の高輪2丁目に位置する。
現在も国道15号(第一京浜)沿いの東側に、高輪大木戸跡の石垣が残っている。
大木戸の地下には地下鉄三田線の泉岳寺駅がある。

高輪大木戸は、江戸の御府内と御府外を区別する場所でもあったそうで、大木戸の傍らには高札場も置かれていた。
江戸の御府内を示す線といえば、朱引(御府内)と墨引(町奉行所支配の範囲)があるが、朱引が設定されたのは1818年(文政元年)に老中阿部正精が諮問に対する見解として示したものであり、高縄大木戸が出来てから100年余りで江戸の境界はさらに広がったということになる。

ちなみに、伊能忠敬は高輪大木戸を全国測量の基点としたそうだ。

景勝地としての高輪

高輪は月見の名所としても知られ、歌川広重の「高輪全図」「高輪之明月」など数々の作品にも描かれている。
歌川広重の浮世絵を通して、当時の風光明媚な高輪の姿を知ることができる。

江戸時代、陰暦正月と7月の26日の夜、月の出るのを待って拝む「二十六夜待(にじゅうろくやまち)」という行事があったそうだ。
1月と7月の26日の夜は、月の中に月光の中に阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の三尊が現れるという言い伝えから、特に高輪から品川の海辺で盛んに行われたのだそうだ。

ちなみに、太陰暦は月の満ち欠けが暦のベースになっており、ひと月は29.5日周期だった。26日目の月はかなり新月寄りの細い月の日だ。

出典:錦絵でたのしむ江戸の名所 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/index.html)

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