見出し画像

【歴史小話】舂米屋と炭薪仲買

舂米屋と炭薪仲買

「舂米屋(つきごめや)」は、米穀問屋・米屋から仕入れた米を舂米屋精米して白米にする町のお米屋さんだ。
山室恭子氏の「大江戸商い白書」によると、舂米屋が江戸商人の名簿資料に初めて登場したのは1851年(嘉永4年)からだそうだ。
白米を庶民が一般的に食べるようになったのは、江戸時代中期頃からのようだが、江戸や大阪などの都市部の住人は白米を好んで食べ、ビタミンB1不足で脚気になって苦しんだという。
いわゆる「江戸煩」だ。
1851年(嘉永4年)の「諸問屋名前帳」では総店舗数13,778軒中、舂米屋は21.2%2,919軒に上るという。

「炭薪仲買(すみたきぎなかがい)」は炭や薪といった燃料を売る仲買で、小売商を兼ねた業種だったと思われる。
煮炊きを炭薪で行った江戸時代の町人に取って生活の必需品であり、飲食店にとっても必要な燃料物資で、現代で言えば電力、ガスといった光熱費にあたる。
1851年の「諸問屋名前帳」では3,702軒で、実に全体の26.9%にあたる店舗数を誇った業種だ。

米や炭・薪は重量が重く、運搬を考えると地域に密着した店が必要とされた業種といえる。
この、「舂米屋」と「炭薪仲買」で江戸の商家の58.1%を誇るとともに、江戸の町全体に店舗を行き渡らせ、57万町人の日常生活を支えるためのネットワークを張り巡らせていたそうだ。

大工の家計でみると

江戸時代の花形職業である大工の家計の記録がある「文政年間漫録」によると、家族3人の30代大工の家計の年間支出では、米代(年間消費量:3石5斗4升)が銀354匁(23.1%)調味・薪炭代銀700匁(45.6%)を占めたという。
調味・薪炭代については、味噌、塩、たまりなどの調味料の費用の含まれているので全てが薪炭代だった分けではないが、薪炭代の比重が高かったと思われる。
江戸に住む住人の米代と薪炭代が、家計支出に占める割合が高かったことを物語っている。

舂米屋と炭薪仲買の寿命

「大江戸商い白書」によると、江戸商人の平均存続年数が15.7年のところ、舂米屋は8.1年、炭薪仲買等が12.9年と全体平均を下回る存続年数だったという。
この2業種の特徴は、消費量の多い生活の必需品であったが、一方で専門性の低かった業種で、ある意味、参入障壁が低く起業しやすい業種だったようだ。

ただし、起業といっても、江戸時代の商売にはが必要であり、舂米屋にも炭薪仲買にも株仲間が存在した。
舂米屋は十八番組のどれかの組に所属し、炭薪仲買は十五番組のどれかに所属したそうだが、江戸の町全体に店舗が行き渡るようになっていた。

間接税

江戸時代の株仲間は、運上金・冥加金という形で間接税を幕府に払っていた。
「大江戸商い白書」によると、舂米屋や炭薪仲買の負担額はかなり少ない方だったようだが、特に舂米屋では1例しか記録がなかったそうで、御用金負担の対象にならないほど零細ビジネスだったということのようだ。

舂米屋と炭薪仲買は、店を構えることを夢みてお金を貯め、株を取得して店を構えて商いを始めるが、多くはない客商売で利益も薄く10年余りで店を畳むという、地域密着ではあるが寿命の短いビジネスだったようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?