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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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記事一覧

#36 清水湊と江尻宿

現在の静岡市清水区の中心部の江尻は古来から交通の要衝だった地域で、戦国時代には今川氏や武田氏も重要視したところだ。 江尻津と江尻城 天然の良港としての条件をそなえた折戸湾には、海上交通の要地として古代から湊が開かれていたそうだ。 江尻津は、静岡市清水区の市街地を流れる巴川の河口東岸にあった湊。 平安時代には、巴川の対岸にあった国府の外港「入江浦」への渡場として機能したと考えられている。 鎌倉時代後期以降になると、入江浦に替わって江尻津が巴川河口部の湊として隆盛となり、東

#35 清見関と興津宿

清見潟 静岡市清水区の興津から袖師にかけては、穏やかな波が海岸線の岩礁を洗う清見潟と呼ばれる景勝地があった。 かなたに見える三保松原と日本平が織りなす景観は、『万葉集』以降多くの歌人に歌われ、愛された場所だ。 飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての貴族で歌人の田口益人(たぐちのますひと)は上野国への赴任の途中、浄見埼で、 「廬原(いほはら)の浄見の崎の三保の浦の寛(ゆた)けき見つつもの思ひもなし」 「昼見れど 飽かぬ田子の浦 おほきみの 命かしこみ 夜見つるかも」 という

#34 薩埵峠の眺めと由比宿

由比宿 日本橋から数えて16番目の宿場町である由比宿は、1601年(慶長6年)、東海道に宿駅伝馬制度が始められた際に伝馬宿として指定された宿場だが、鎌倉時代から湯居の名で知られた古い宿場だった町だ。 宿場は、蒲原宿からは1里(3.9km)、興津宿までは2里12町(9.2km)の距離にあり、日本橋からは38里21町45間(151.6km)の距離にあった。 1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、宿場の総戸数は160軒、人口は713人(男366人、女429人)あ

【歴史の風景】江戸のファストフードと技術革新

現代に生きる我々にとってのファストフードと言えば、「 ハンバーガー」、「フライドチキン」や「牛丼」、はたまた「たこ焼き」といったメニューが思い浮かぶかと思う(個人的には某店の「ナポリタン」も好きだが・・・)。 参考までに、現代の屋台とも言えるキッチンカーの最近の人気メニューは、「からあげ」、「クレープ」、「ピザ」、「ハンバーガー」、「カレー」だそうだ。 ところで、江戸時代にはファストフードは存在したのだろうか? 江戸の外食事情 江戸の町は、男性の比率が高い都市だったと言

【江戸の知恵】水とリサイクル

水には、「上水」、「中水」、「下水」の3種類があるそうだ。 「上水」は「飲用に適した水を供給する水道」などの水、「下水」は「生活排水や産業排水、雨水などの汚水」などの水。 あまり馴染みがないが、「中水」は「飲用に適さないが雑用、工業用などに使用される水」のことで、公園の噴水などでも使われているそうだ。 ところで、昔の上水や下水はどのようになっていたのだろうか? 「水」で失敗した藤原京 日本初の中国式の都城「新益京(しんやくのみやこ)」藤原京は、694年(持統8年)に「飛

【道と歴史】元佐倉道と逆井の渡し

千葉市民になって16年余りになるが、千葉については知らないことだらけだ。 最近も元佐倉道と呼ばれる街道の存在を知った。 元佐倉道は、隅田川(昔で言えば大川)に架かる両国橋付近から堅川の北岸に沿って東に進み、中川を「逆井の渡し」で越え、小松川から一直線に小岩市川の関所に通じる道のことだそうだ。 旧千葉街道とも呼ばれているらしい。 整備時期はいつか? 元佐倉道は将軍の通行のため整備された道だったが、将軍の通行が少なくなり江戸時代を通じて通行が制限された街道だったといった情報も

#33 富士川と蒲原宿

富士川の渡しと間宿岩淵 南アルプスや八ヶ岳などの信濃国と甲斐国の山々から駿河国を通り駿河湾に流れ出る富士川は、水と共に大量の土砂を下流へ運び、河口部の流域では川底が浅くなって川幅が広がり、古くから急流の大河として知られていたそうだ。 富士川右岸に位置する岩淵には富士川渡河の渡船場があり、東海道の街道筋には名物の「栗ノ粉餅」を売る茶店が建ち並んでいたそうだ。 富士川を渡河する東海道には江戸時代を通して橋は架けられず、渡船により旅人を往来させていた。 江戸末期の1845年(弘

【歴史小話】和菓子と6月16日

6月16日は和菓子の日だそうだ。 この和菓子の日は語呂合わせではなく、江戸時代の風習「嘉祥」もしくは「嘉定」から来ている。 「嘉祥」は、陰暦6月16日に疫病を防ぐために16個の餅や菓子を神前に供えてから食べた風習だそうだ。 陰暦だから、新暦でいうと今年は8月2日、夏真っ盛りの時期の行事だ。 江戸城の嘉祥(嘉定) 江戸幕府の嘉祥(嘉定)では、陰暦6月16日に大名・旗本が総登城して将軍から菓子を頂戴した。 杉の葉を敷いた片木盆1,612膳にのせられた総数20,324個の和菓子

#32 富士山南麓と吉原宿

富士山南麓の地形と河川 富士山の南に位置する旧東海道の蒲原宿から原宿に掛けての地域は、富士山から流れる河川で出来た沖積平野の地だった。原宿の北に位置する浮島沼は、「諸河川の堆積作用によって次第に泥炭化してゆくが、なおラグーンや沼沢地をとどめ」、「浮島ヶ原」と呼ばれる低湿地帯だ。 この辺りの地名も沼津、吉原=葦原、蒲原=蒲の原など、湿地帯を表す名称が続いている。 富士川の流れは太古は大きく東に蛇行して現在の田子の浦漁港付近は、往時、富士川の本流が流れ込む河口だったそうだが、

【歴史小話】江戸の外食産業と蕎麦切屋

江戸の商家数 嘉永4年(1851年)の問屋再興令以降の諸問屋及び商工組合の連名簿である「諸問屋名前帳」に記載された総店舗数13,778軒あるという。 その中で、57万町人の日常生活を支えた「舂米屋」=「町の米屋」は21.2%の2,919軒に上り、「炭薪仲買」=「町の燃料屋」は26.9%の3,702軒に上る。 この、「舂米屋」と「炭薪仲買」で株仲間・諸組合に加盟する江戸の商家の58.1%を誇るとともに、江戸の町全体に店舗を行き渡らせ、57万町人の日常生活を支えるためのネットワ

【歴史メモ】鋳銭司と貨幣鋳造中絶の謎

958年(天徳2年)に鋳造された乾元大宝(けんげんだいほう)を最後に、日本では国家による貨幣鋳造が近世初期まで中絶した。 銅銭に関して言えば、1606年(慶長11年)に江戸幕府によって発行された慶長通宝(けいちょうつうほう)まで国家による貨幣鋳造は途絶えた。 中絶期間は約600年以上に及ぶ。 なぜ、貨幣鋳造は中絶したのだろうか? 鋳銭司 鋳銭司(じゅせんじ)は、古代日本に置かれた令外官の一つで銭貨鋳造を司った。ただし、臨時におかれた役所だそうで、必要な量の貨幣を造り終える

【道と歴史】船橋宿の謎

船橋は江戸時代の中期以降、佐倉街道最大の宿場町として賑わった宿場町だ。 「佐倉街道」以外にも、徳川家康が九十九里方面での鷹狩のために土井利勝に命じて整備した「東金御成街道」や館山まで通じる「房総往還」の起点であり、成田詣でも賑わった「行徳道」とも繋がる交通の要衝であった。 しかし、なぜか船橋宿は正式は宿場ではなく、間の宿と呼ばれる休憩施設という位置付けの町だったというのだ。 船橋市西図書館郷戸資料室のサイトには、「公式文書には「船橋宿」と書けないので、弘化元年(1844)に

#31 浮島ヶ原と原宿

宿場として整備される以前の原宿(はらしゅく)は浮島ヶ原(うきしまがはら)と呼ばれ、愛鷹山南麓の沼津市西部から富士市東部にわたって低湿地帯が広がっていた。 愛鷹山系から流れ込む河川の水が集まったことで、浮島沼と呼ばれる沼群が形成されていたのだった。 原宿 原宿は、東海道五十三次の13番目の宿場として設置された宿場で、現在の静岡県沼津市にある。 原宿は規模の小さい宿場であったが、原宿の北側に見える富士山の姿は秀麗で、歌川広重をはじめとして多くの絵師に描かれた景観の地だった。

【歴史小話】貨幣の話(2)

慣用句などで「びた一文まけられない」とかいったかたちで「びた」という言葉を子供の頃からよく耳にしたが、この「びた」が何のことか長いこと知らなかった。 貨幣の歴史を調べていくと「鐚銭(びたせん)」に出くわす。 鐚銭とは粗悪な銭貨のことで、私鋳銭(私的に偽造された銭)だったり、表面が磨滅したりした粗悪な銭をのことを指す。 なぜ、鐚銭が出回るようになったのだろうか? 古代・中世の貨幣鋳造 日本で最初に正式に発行された貨幣は「和同開珎」であり、708年(和銅元年)のことだった。