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【江戸の知恵】水とリサイクル

水には、「上水」、「中水」、「下水」の3種類があるそうだ。
「上水」は「飲用に適した水を供給する水道」などの水、「下水」は「生活排水や産業排水、雨水などの汚水」などの水。
あまり馴染みがないが、「中水」は「飲用に適さないが雑用、工業用などに使用される水」のことで、公園の噴水などでも使われているそうだ。

ところで、昔の上水や下水はどのようになっていたのだろうか?

「水」で失敗した藤原京

日本初の中国式の都城「新益京(しんやくのみやこ)」藤原京は、694年(持統8年)に「飛鳥浄御原宮」から遷都されたものの、わずか16年後の710年(和銅3年)に廃都となった。
近年の発掘調査により、京域については平城京をしのぐ日本最大の古代都市であったことも明らかになっており、当時の人口は4万人から5万人と推定されている。
なぜ、これほどの大都市が短命で終わってしまったのだろうか?

藤原京の共同便所は、排泄した糞尿を流水で流す水洗式であったことから、道路側溝に生活排水を垂れ流していた。
706年(慶雲3年)3月の詔の中に、「京の内外に穢れた汚れがあふれ、悪臭が漂っている。即刻取りしまれ」と命じたとあり、浄化されないまま側溝、河川に流される大量の屎尿は、都市衛生の悪化など困難な事態を引き起こしたと考えられている。
東南が高く、天皇が住む北が低くなる藤原京の地形は、生活排水が北に向かって流れてくるため、悪臭も北側がより強く感じられたことであろう。
廃都の理由は他にもあったことと思われるが、詔まで出てしまうほど悪臭は問題だったのだろう。

江戸の上水道・下水道

江戸の町は、もともと海岸に近い湿地を埋め立てた造成地が多かったため、井戸を掘っても塩分の強い水が出るなどしたことから、飲料水の確保は当初から重要な事項となっていた。
そのため江戸幕府は、関東に入封した1590年(天正18年)から小石川上水(後の神田上水)の開削を始め、江戸の都市拡大に伴って増大した水需要への対応として玉川上水を整備した。
最盛期には6つの上水(神田、玉川、本所、青山、三田、千川)を整備し、そこから地中に埋めた水道管によって府内に水を供給したことで、江戸の住人はあちこちに設置された井戸から飲料水や生活用水を汲むことが出来た。

一方、下水は排水路が掘られていたが、そこを流れる排水は堀や川に垂れ流しになっていた。
とはいえ、江戸の下水には屎尿が流れることはなく、家庭から出る雑排水もそれほど汚れてなかったことから川や堀に直接流れていっても問題はなかったと考えられている。
それでは、江戸の屎尿はどのように処理されていたのだろうか?

江戸のトイレ事情とリサイクル

江戸のトイレ事情は、肥料問題に結びつくことで垂れ流しを防ぐことが出来た。
江戸の近郊の村々は、江戸の人口増大による食料需要に対応するために野菜生産を盛んに行うようになったが、肥料不足に悩む農民にとって、庶民から出る大量の糞尿は大切な肥料の源となった。
江戸の長屋には各部屋に便所は備え付けられてなく、外に共同便所があった。この共同便所の汲み取りを、農民が代価を支払って行っていた。

この代価は長屋を管理する家守(大家)の重要な収入源となったといわれ、1862年(文久2年)の調査によると、江戸町方中の1年間の糞尿代金の総額は49,503両に上ったという。
当時の家守の総数は15,506人だったことから、家守一人あたりの糞尿代金は一年あたり金三両余であり、江戸幕末期における1両の価値は大凡20万円であったことから、一人あたり60万円の収入があったことになる。
管理する物件の規模によっては、より多くの収入を得ていた大家もいたことことだろう。

ちなみに、食事の内容によって糞尿の肥料としての質が異なったことから、最上等品から下等品まで糞尿のランク付けも行われたいたそうだ。

町に上下水道が完備され、糞尿は下肥として分離された、この時代にあって最先端ので衛生都市であった江戸。
江戸時代の庶民の知恵に豊かさを感じる。


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