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【歴史の風景】江戸のファストフードと技術革新

現代に生きる我々にとってのファストフードと言えば、「 ハンバーガー」、「フライドチキン」や「牛丼」、はたまた「たこ焼き」といったメニューが思い浮かぶかと思う(個人的には某店の「ナポリタン」も好きだが・・・)。
参考までに、現代の屋台とも言えるキッチンカーの最近の人気メニューは、「からあげ」、「クレープ」、「ピザ」、「ハンバーガー」、「カレー」だそうだ。

ところで、江戸時代にはファストフードは存在したのだろうか?

江戸の外食事情

江戸の町は、男性の比率が高い都市だったと言われている。
徳川家康が関東に入府してからの江戸時代初期の江戸は、神田山などを掘り崩した土で日比谷入江を埋め立てて土地を造成し、上水道や道路を整備するなど土木工事に事欠かない都市だった。
また、都市の骨格が出来た後の江戸では度々火事の発生したことで、復興作業による仕事は多かった。
一方で、江戸時代には全国的な飢饉が発生したことから、農家の次男、三男が諸国から職を求めたやってきていた。
これに加えて、参勤交代により江戸に単身赴任で駐在した武士達が多くいた。
江戸の町人の男女比は、江戸初期で4:1、中期の頃で1.8:1、後期になると1.1:1と徐々に均衡に向かっていったが、これ以外に単身赴任の武士がいた訳だから、江戸の町は男性比率が高い都市となっていた。

江戸時代の下級武士の日記には、自炊して倹約する姿もある一方、外食を度々楽しんでいる姿も垣間見える。
1人だと外食したほうが効率的という面もある。
そのあたりは、昔も今も単身男性の食生活は同じなのかもしれない。
それだけ、江戸の町では外食の需要があったということだ。

ところで、江戸時代のファストフードにはどのようなものががあったのだろうか?

江戸のファストフード

江戸で流行ったファストフードの代表格は、「蕎麦切り」「天麩羅」「にぎり鮨」だろう。

屋台の蕎麦屋は「二八そば」「夜鷹そば」「風鈴そば」などと呼ばれ、店を構えた飲食店が閉まる夜9時頃(亥の刻)から明け方(寅の刻)まで夜間営業していたそうで、おおいに繁盛したそうだ。
メニューは「かけ蕎麦」のみで値段は16文。現代の貨幣価値に換算すると480円程度の値段だった。

ちなみに、幕末の頃の江戸で店を構えた蕎麦屋は3,763店もあったそうで、「店を構えてのそば屋は酒を添えて盛りや掛け、さらにはてんぷらや霰などの具も工夫し、より美味しいものにしていった」そうだ。

「天麩羅」も屋台で提供された料理だ。
天麩羅が屋台料理として定着した直接の理由は、火事の多い江戸の町では、油を高温に熟する天麩羅の屋内営業が禁止されたためである。
当時の天ぷらは野菜や魚を串刺しにして揚げたもので、1串4文(120円)程度と手頃な値段で提供されていた。

「にぎり鮨」は、江戸で生まれ発達した食べものだ。
もともとと言えば、魚を塩と米飯で乳酸発酵させた保存食の「なれずし」だったが、室町時代になると発酵期間を短くして、ご飯も食べるようにした「生なれずし」が生まれ、江戸時代中期になると現在のおすしの原型となるお酢を使った「早ずし」が誕生した。
「早ずし」は、飯にお酢と塩で味付けして時間短縮したもので、箱に詰めて運搬中に味をなれさせた「箱ずし」が屋台で売られていたそうだ。
「にぎり鮨」の登場は1820年(文政3年)前後だそうで、箱に詰めて押す時間も待っておれず、さらに早くということで、「酢で調味した飯に、下処理して味付けした江戸前の魚をのせてにぎる」スタイルが誕生した。
紀嘉永6年(1853年)頃に書かれた「守貞謾稿」には、鶏卵焼、車海老、白魚、まぐろさしみ、こはだ、あなご甘煮などのネタがあること、値段はみな8文(240円)で玉子巻だけが16文(480円)だったことが書かれているそうだ。
当時のにぎり鮨の大きさは、現在の2倍から3倍も大きかったらしい。

調味料と食用油の発達・普及

ところで、「蕎麦切り」「天麩羅」「にぎり鮨」の普及には、調味料の発達と食用油の生産量増加が影響している。

蕎麦切りが庶民に親しまれた背景には、醤油鰹節という江戸の味となる調味料の発達も大きく寄与している。
にぎり鮨ではお酢でご飯を調味することで時間短縮した訳だが、お酢が調味料として一般に広まったのは江戸時代になってからだそうだ。
こうした醤油鰹節は発酵技術の発達と製法技術の普及により、庶民に親しまれるようになった調味料だ。

また、天麩羅が庶民の味として普及した背景には、菜種油胡麻油の生産量が増え、食用油の使用が広がったことも挙げられる。

江戸の味の醸成に、調味料の発達・普及と食用油の生産量増加が一役買ったことにも注目すべきだろう。

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