見出し画像

【道と歴史】元佐倉道と逆井の渡し

千葉市民になって16年余りになるが、千葉については知らないことだらけだ。
最近も元佐倉道と呼ばれる街道の存在を知った。
元佐倉道は、隅田川(昔で言えば大川)に架かる両国橋付近から堅川の北岸に沿って東に進み、中川を「逆井の渡し」で越え、小松川から一直線に小岩市川の関所に通じる道のことだそうだ。
旧千葉街道とも呼ばれているらしい。

整備時期はいつか?

元佐倉道は将軍の通行のため整備された道だったが、将軍の通行が少なくなり江戸時代を通じて通行が制限された街道だったといった情報も出てくる。
将軍の通行のため整備された道ということは、やはり鷹狩が関係するのだろうか?

将軍鷹狩の道としては、土井勝利が船橋以東の東金御成街道を整備したのが1614年(慶長19年)とされていることから、大川から小岩に至る道も同時期から両国橋が架けられた1659年(万治2年)の間に整備された道と考えられているようだ。

宿場と一里塚

街道には伝馬駅と一里塚の整備が付き物だが、「伝馬宿拝借銭覚」によると1674年(延宝2年)5月に貸付金が支給された佐倉街道の伝馬宿として「小松川」「小岩」「八幡」があったそうだ。
そうすると、元佐倉道の「小松川」「小岩」には宿場が設置され、人馬の継立が行われていたということになる。

一方、一里塚に関しては、西小松川村に「西小松川の一里塚」と伊予田村(北小岩一丁目・同三~四丁目、東小岩三丁目・同六丁目など)に「小岩の一里塚」があったそうだ。
「西小松川の一里塚」は日本橋より二里目の塚で、「五分一橋と境橋の中ほど」の位置にあったという記録があるらしい。
また、「小岩の一里塚」は三番目の塚で、東小岩六丁目の千葉街道沿い(総武線のガード南側)の両側に榎を植えた塚があったということだそうだ。

街道筋の付け替え時期

水戸街道の新宿の下河原の道標が造立された1693年(元禄6年)までのいずれかの時期に「水戸街道経由で新宿へ至り小岩市川関所を通過する道筋に付け替えられた可能性」が指摘されている。

ちなみに、東金周辺に鷹狩りに出掛ける徳川家康のために造られた船橋御殿は、1614年(慶長19年)前後に造営されたと考えられており、2代将軍秀忠までは宿泊・休憩に利用したそうだが、それ以後、将軍家の東金周辺での鷹狩りは催されなくなり、船橋御殿は廃止されている。
貞享年間(1684年~1688年)には、船橋御殿は船橋大神宮神職の富氏に払い下げられたことから、同時期に付け替えが行われたということかもしれない。

ところで、なぜ、街道の付け替えが行われたのだろうか?
いろいろと考えてみたが、やはり江戸の防衛ということだろうか?

なお、幕府の方針として、房総諸藩の参勤交代の出府は小岩市川渡しから新宿へ北上し、千住宿から江戸に入る佐倉道・水戸街道ルートの通行が指示されていたそうだが、佐倉藩などからの再三の要望により、夜になる前に江戸に到着できる場合に限り元佐倉道を利用することを認めるようになったそうだ(夜間に千住宿が混雑するのを避ける意味合いがあったようだ)。

逆井の渡し

江戸時代、中川は橋の架橋が認められてなかったことから「平井の渡し」「逆井の渡し」「中川の渡し」まどの渡船場が置かれていたそうだ。
このうち「逆井の渡し」は元佐倉道の渡船場で、歌川広重が1856年(安政3年)2月から1858年(安政5年)10月にかけて制作した『名所江戸百景』にも「逆井のわたし」として描かれている。
当時の逆井付近は長閑な田園地帯だったようで、中川の川岸には葦の繁り、白鷺が群れている様子が描かれている。
二艘の渡し船が行きかう先には小松川村の民家が描かれているが、宿場の名残だろうか。
「逆井の渡し」の跡とおもわれる位置には、1879年(明治12年)に逆井橋が架けられている。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1303262/1/1)を加工して作成

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?