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【歴史小話】大家という江戸のビジネス

大家という職業

落語に出てくるセリフに「大家といえば親も同然、店子といえば、子も同然」というものがあるが、江戸時代の大家はどのような存在だったのだろうか?

大家は、地主の代理人あるいは代行者という職業だった。
現代で言えば、賃貸物件の管理人的存在になる。
大家という職業が発生した背景には、江戸の町の地主の多くが、江戸から遠く離れた京都や大坂に住む不在地主だったことが大きく影響している。

ところで、大家になるためには株(家主株)を買う必要があったそうで、株取得するには大凡100両程掛かったそうだ。
立地の良い長屋の家主株だと2百両、裏長屋でも20両したらしい。

大家の収入は、
①雇い人からの俸給
②店賃の集金手当(賃料の5%程度)
③店子からの礼金
④下肥料(農家に肥料として売る糞尿代金)
などがあったそうだ。
4番目の「下肥料」は管理する長屋の共同トイレの糞尿が江戸の近郊農家へ肥料として売り物となり、大家の収入源となったことが面白い。

大家として数年勤めれば回収できる程度の収入があったそうだが、仕事内容は多忙を極めたという。

ちなみに、100両を現代の貨幣価値に換算してみると、1,700万円位になる。
20両でも340万円位で家主株は決して安いものではなかった。

江戸の町人

江戸時代、江戸の町政は町奉行を行政の頂点に置いて、町年寄、町名主、家持(地主)の3階層の行政ピラミッドが組まれていた。

江戸の町で町人といえば、町の中に家と敷地を持つ家持までに限定され、町役・町入用を負担しない地借や店借は町共同体の構成員とは認められていなかった。
つまり、大家や長屋の住人は町人とは扱われない、身分的に区別された存在だった。

江戸の町の運営

江戸の町の運営は町人である、町年寄町名主地主が担った。

(1)町年寄
町奉行の下「幕府の意思を町地に伝達・徹底されるための事務執行機関」である町年寄は、「幕府による江戸統治機構」としての役割と「江戸惣町(江戸の全町)の自治組織の頂点」としての役割を勤め、江戸開府以来、奈良屋樽屋喜多村の三家が世襲で担った。

町年寄の職務は、
①名主への町触伝達
②新地の地割や請渡し
③人別集計
④物価統制
⑤商人や職人の仲間名簿の保管
⑥町奉行の諮問に対する調査・答申
⑦町願書の関連調査
⑧町人間の紛争の調査・調停
など、江戸の町の町政の実務とりまとめを担った。

(2)町名主
町年寄の下には、町名主が置かれた。
江戸の場合、数町から十数町に一人の町名主が置かれており、担当地区の町政を担い、町内の一切のことに責任を持った。
町名主の業務は多岐に渡り、
①町触を町内へ伝達
②新しい土地の町割り
③人別調査(年二回提出)
④町内の会計
⑤町入用や幕府へ納める税の徴収と納入
⑥町奉行所や町年寄から依頼された調査
⑦町民から町奉行所への諸願書の受付
⑧火事発生時、火消人足を引き連れて出動
といった業務を担当した。

(3)地主(家持)と家主(大家)
地主は実質的な町の運営者であり、町政に関する業務(町名主の補助業務)を担った。
ところで、町の運営の仕事は多岐に渡ることと、不在地主も存在したこともあり、地主は「家主(家守・大家)」と呼ばれる代理人を立て、家主で構成される「五人組」が実際の町政を担っていた。
地主・家主は、
①町触の人借人・店借人への読み聞かせ
②人別帳調査
③訴訟や呼び出しでの奉行所への付き添い
④諸願いや不動産売買の際の証人
⑤火の番と夜回り、火消し人足の差配
や、長屋管理に関する業務として、
⑥店子の身元調査と身元保証人の確保
⑦上下水道や井戸の保全
⑧道路の修繕
⑨建物の管理
⑩賃料の集金
⑪店子の生活の指導や扶助
⑫病人怪我人・捨て子の救済
⑬冠婚葬祭の差配
などが町政に関する主な業務だった。

町内の訴訟と自身番

町内の訴訟はまずは町名主が裁き、それでも解決しない時には町年寄に上訴して、それでも解決しなかった場合は奉行所に上訴するという累進性が取られていたそうだ。

裁判機能を維持するために、月毎、地主たちが交代で町名主の補佐役を務めていたそうだ。
しかし地主は多忙だったため、その代行をしていたのも家主(大家)だった。

また、地主は「自身番(じしんばん)」と呼ばれる町人地に置かれた番所に交代で詰めた。
自身番は、現在の役所の出張所交番消防団詰所を合わせたような機能を果たした場所で、この役目も家主(大家)が代行していた。

税金(町の運営費)

江戸の町では、町入用(まちにゅうよう)と呼ばれる町人の負担による町の運営費が存在した。
現代で言えば、住民税や固定資産税といったところになる。
初めは小間割・坪割・面割、のち小間割で賦課されたという。

江戸の町での支出経費としては、経常費として、公役銀・御年頭銀・町年寄晦日銀・名主役料・水役銀、臨時費として、祭礼入用・番屋修復畳替などだそうだ。

七分積金

松平定信の寛政の改革のなかで行われた政策のひとつに、七分積金(しちぶつみきん) がある。
七分積金は、江戸の町の町入用を節約させ、その節約分の7割を積み立てさせて、非常の場合の備えや貧民救済にあてた制度。
1792年(寛政4年)より、七分積金によって毎年2万両以上の積立が江戸町会所に集められ、天保の大飢饉や幕末の米価高騰に際して金銭や米を放出して民心を鎮めたという。

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