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#06 ドラフトデザインの原体験

#04#05で、理想のゴール像を解像度高く描くためにも、プロジェクトをドライブさせてリードするためにも、「自主性」が重要なキーワードになると説明してきた。
今回は、自分の内に自主性という火がなければプロジェクトは駆動しない、ということを実感した原体験について触れてみたい。


KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭

あれはクリエイティブディレクター/プロジェクトマネージャーとしてプロジェクトに携わり始めて3年ほど経ち、徐々に仕事にも慣れて、ギリギリ一人前と言っても差し支えない程度になった頃だったと思う。

舞い込んできた仕事は、芸術祭のクリエイティブ制作だった。
その「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭」は、茨城県の県北地域の6市町村(常陸太田市・常陸大宮市・大子町・高萩市・北茨城市・日立市)を舞台とし、東京23区の約2.6倍もの広さで開催された、茨城県で初めての国際芸術祭だ。翌年の茨城県知事交代に伴って残念ながら一回のみの開催でその幕を閉じてしまったけれど、目標の30万人来場に対し、2.5倍以上の約78万人の来場を記録した。

もともと個人的にもアートが好きで、ささやかながら作品を購入したり、アートフェアでプライズセレクターを務めたりもしていたし、開催エリアの県北地域ではないものの茨城県自体は地元の県だったこともあり、この仕事に関われることは嬉しかったし気合いも入ったものだ。

通用しないセオリー

主に担当したのは、芸術祭の公式Webサイト制作のディレクション。
芸術祭の顔となり、公式の情報発信やPRなどあらゆるコミュニケーションのハブとなる重要なものだ。

幸い、ロゴやカラー規定などのVIは芸術祭のクリエイティブディレクターとオフィシャルデザイナーによって先に完成しており、Webデザインのトーン&マナーの取っ掛かりはある状態だったため、Webサイトの構造設計・情報設計がポイントだった。

早速、これまでにいくつか担当してきたWebディレクションの経験を頼りに作業に取り掛かった。
まずはリサーチとして他の芸術祭やアートイベントなどのWebサイトを集め、それぞれのサイトの構成やグローバルナビゲーション、Topページの要素などを比較し、デファクトスタンダードとして外せないコンテンツをプロットしながら全体のサイト構造を検討していった。
今回の芸術祭のWebサイトは、PC・SP合わせて約30テンプレート分にもなる複雑なものだ。エリアと展示会場、アーティストと作品、イベントやプログラム、ニュースや記事とがお互いに関係する(しかもそれは一対一とは限らない)ため、Webサイト上で相互に引用表示し合うCMSの実装方法も考慮しながら、サイトとページの構成を考えていく必要がある。
そこで今度は音楽フェスやメディアサイトなどへも調査の対象を広げ、作品紹介ページやイベントスケジュール、ニュース記事など、それぞれのコンテンツごとに適した情報の見せ方やUIのアイデアを収集していく。
そうして自分なりにかなり細かく整合性を調整しながら組み上げたワイヤーフレームは、それなりに妥当なものになったはずだった。

しかし、GOが出ない。

当時サポートに入ってくれていたシニアディレクターからは「うーん、まだあと一歩足りないな」というようなコメントばかりで、具体的にどこをどうしたらいいのか分からず。
Topページをフルスクリーンの演出重視にしてみたり、構成を流行りのグリッドデザインにしてみたりと色々チューニングしてみたものの、手を入れればいれるほど迷走して時間だけが過ぎていき、さすがにそろそろワイヤーフレームを固めなければ制作スケジュールに支障が出るというギリギリのところまで来てしまった。

開き直りでぶつけたドラフト

次の日の何度目か分からない再提案に備え、持ち帰ったPCを夜中の自宅で開いてみたものの、ブラッシュアップの引き出しは出し尽くしてしまっており全く手が動かない。
迷走を極めてすっかり追い詰められた末にできることは、もう開き直ることしか残されていなかった。
リサーチで得た「正解っぽいもの」をいったん忘れ、自分が見たいコンテンツを全開に、自分の内にある衝動に従ってWebサイトのドラフトを作ることにしたのだ。

通常、ワイヤーフレームではWebデザインの領域である色彩や画像、要素のレイアウトやあしらいのデザインなど、Webサイトの印象や雰囲気を左右する部分には踏み込まず、要素の重要度・優先度や遷移・回遊性などの情報設計に徹するのが鉄則だ。
ワイヤーフレームでディレクターがWebデザインの領域に踏み込みすぎてしまうと、かえってその後に引き渡すWebデザイナーのクリエイティビティの発揮を妨げてしまうことにもなりかねないため、ツールで詳細に設計したワイヤーフレームをあえて余白を感じる手描きに描き直してからデザイナーに渡す先輩ディレクターもいたくらいだ。
実際、駆け出しの頃は変にワイヤーフレームを作り込みすぎたせいで、ほぼワイヤーフレームそのままのデザインが上がってきてしまって頭を抱えたことは何度もある。

だが、ダミーのテキストや画像の代わりの四角を並べるだけではドラフトとして表現しきれないので、この際そのセオリーも無視することにした。
勝手に「こんな記事が読みたい」と思うアーティスト同士のクロストーク記事を書き、「この作家に参加してもらえたらいいな」と思う企画を作り、「こういう人にモデルコースの体験記を作ってほしい」と思うレポートを書き、「そうそうこんな感じ」と思う写真をはめ込み、各コンテンツの雰囲気を伝えるためのレイアウトの工夫やあしらいも遠慮なく盛り込んだ。

こうして夜が白む頃にできあがったものはもはやワイヤーフレームではない代物だったが、翌日半ばヤケクソ気味にそれを見せたら、あっさり通ったのだ。
「いいよ。ちゃんと魂と愛がこもってる」と。

そこからようやくWebサイト制作が動き出しただけでなく、ドラフトで妄想として書いたレポートやコンテンツを起点に実際に企画が実現するなど、一気にプロジェクトがドライブしていった。
「ああこれでいいのか、こういうことなのか」と視界が開けた瞬間だった。

自主性とセオリーの両立こそがカギ

このときはたまたまWebサイトのドラフトがうまく機能したけれど、もちろんいつでも作り込んだドラフトがワイヤーフレームの代わりになるわけではないし、ましてやリサーチから得られる情報が不要だったり邪魔になるというわけではない。
重要なのは、自分の内にある衝動や自主性とセオリーを結び付け、ドラフトという形で表出することができたという点だ。
自主性とセオリーのどちらかだけではなく、両方が結び付き、それをプロジェクトメンバーやステークホルダーに見える形で提示できたからこそ、プロジェクトをドライブさせることができた。

最初のものは一般的なセオリーや「正解」だけに頼っており、個の自主性との接続がなかったために、ゴールとなるWebサイトの解像度が低くワイヤーフレームとしても強度が足りなかったのだ。

ここでいう「自分の内にある衝動や自主性」は、単に自分が見たいコンテンツを盛り込んだということだけではない。
冒頭で「アートも好きで芸術祭の仕事に関われるのは嬉しかった」と書いたが、実は、そんなに単純な気持ちではなくいくらかの葛藤もあったのだった。
地域の芸術祭はいい仕組みだと思う。アーティストにとっても発表の場や実績になるし、地域にとっても活性化の起爆剤や文化的なレガシーになりうる。しかし、見方によってはアートを地域活性の道具として利用しているという側面は否めない。
Webサイトのドラフトで妄想として描いたレポートやコンテンツは、どれもアノニマスな「公式」ではなく、個人の顔が見えてそれぞれの主観で語られるコンテンツとして思い描いたものだった。
それは芸術祭に関わる一人として、無責任に公式の「正解」や「楽しみ方」を押し付けるのではなく、様々な個人の主観を軸に、芸術祭や地域に対する多様な価値観をせめて内包できるものにしたいという、個人的な「自主性」の表れでもあった。

この件が、心に主体性から生じる熱量を持ち、それをプロジェクトに接続することができれば、自分だけでなく周りをもドライブしうる大きな力になるということを、まさに自分ごととして実感した原体験だったと思う。

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