【マッチョイズム】男らしさを競う文化とは何か?(Berdahl et al., 2018)
さて、今日から少し趣向を変えて、インクルーシブ・リーダーシップやインクルージョンとは違うテーマに関する文献も紹介していきます。
どんな論文?
「マッチョイズム」とは、男らしさを重んじる思想のことを指す和語です。要するに、男らしさの規範が強い組織や、その規範をもった人たちが持つような、「マッチョ」なことが良い、という考えです。
マッチョイズムとは何か、という点に関しては、研究室の先輩であり、マッチョイズムで度々メディアに登場する筒井さんの、こちらの論考がわかりやすいと思います。ぜひ一度ご覧になってみてください!
今回紹介する文献は、「男らしさを競う文化」=Masculinity Contest Culture(MCC)、という考えを世に出した著者らによって編まれたものです。
著者らの問題意識は、職場のジェンダー革命が停滞している主な理由が、仕事が男性間の男性性を競う場になっている、という点です。
こうした背景から、本論文では、男性性を競う文化の理論的枠組みを概説し、職場がいかに男性にとって "男性らしく"あらねばならないか、といったプレッシャーについて解説しています。
男らしさを競う文化を持つ組織は、女性だけでなく男性にとっても、個人の悪い結果(燃え尽き症候群、低い組織コミットメント、低い幸福感など)に関連するようです。
自分自身も仕事で共同研究を行い、この「男らしさを競う文化:MCC」を調査したことがあります。その結果、MCCがインクルーシブな風土に負の影響を与える、ということが示されました。
MCCは、弱肉強食、強さとスタミナ、弱さを見せるな、仕事第一主義、といった下位概念で構成される尺度ですが、古き良き日本企業には少なからずありそうな文化です。
興味のある方は、東京大学バリアフリー教育開発センターのレポートなどをご覧になってみてください。以下のサイトからダウンロードできます。
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2007455
「男らしさ」に関する研究
文献では、これまでの研究で「男性性」「男らしさ」が、どのようなものかを整理しています。いくつか、文献で触れられている「男らしさ」について紹介します。
男性になる:世界中の多くの文化において、男性は他者を支配すること、「物事を起こす」こと、他者から支配されることに抵抗することなどを通じて、男性になる(Cuddy et al., 2015; Ezzell, 2016; Glick et al.)
「男らしさの行為」は、単なる自己呈示や中立的な振る舞い方ではなく、「男性、男性、男らしさを価値化する行為、女性、女性らしさを軽んじる行為、ネットワーク、仕事、権力の座から女性を排除する行為、戦争、ビジネス、政治における支配行為を調整する行為」(Schwalbe, 2014, p.31)を含んでいる。
文化的「男らしさ」とは、その核心において、優位性を獲得することである:女性に対してだけでなく、他の男性に対しても(Connell, 1987; Connell & Messerschmidt, 2005; Messerschmidt, 2018; Pleck, 1974; Sidanius & Pratto, 2001)。支配は、覇権的男性性を達成するために必要かつ十分であり、他者から支配されること(例えば、脆弱性や弱さを示すこと)は、自分の男性性を破壊する(Bosson & Vandello, 2011)。
男性性の原型と考えられているものは、実践、特徴、期待、相互作用、制度的な力学(例えば、タフ、ストイック、稼ぎ手、リスクテイカー、攻撃的、支配的、リーダー)である。
覇権的男らしさ(Connell, 1987; Messerschmidt, 2018)は、文化的に最
も尊ばれる男らしさの形態(Connell & Messerschmidt, 2005)であり、「
個々の男性によって演じられるときに最も尊ばれるだけでなく、集団的
に演じられるときに男性の権力と特権を維持するのに最も効果的な形態
」(Schwalbe, 2014, pp.31-32)である。西洋的な覇権的男らしさ:現代の西洋文化における覇権的な男性像とは、金持ちで、白人で、異性愛者で、背が高く、スポーツ万能で、職業的に成功し、自信があり、勇気があり、ストイックであること(注:アーノルド・シュワルツェネッガーの影響が強いのか?このイメージ。。。)覇権的男らしさのすべての側面を実践し、体現している男性はごく少数であるにせよ、その理想化によって、これらの側面は広く規範化されている(Connell & Messerschmidt, 2005)
「man up(男らしく)」という言葉が示すように、男性であることは、生物学的に男性であること以上に、達成されたステータスである。人々が女性らしさを、与えられた特徴とみなす傾向があるのに対し、男性らしさは何度も何度も獲得しなければならない(Vandello, Bosson, Cohen, Burnaford, & Weaver, 2008)
男らしさとは社会的に獲得されるものであるため(例えば、他人を圧倒すること、稼ぎ手であること)、他人の見方や敬意に左右され、それが男らしさを条件付きで希薄なものにしている。そのため、男らしさは簡単に失われ(例えば、感傷的な感情を示すことによって)、簡単に元に戻される(例えば、失業することによって)。
社会的地位として、男らしさは不安定であり、達成するのは難しく
、簡単に失われてしまう(Vandello & Bosson, 2013)。男性らしさを繰り返し証明する必要性から、男性は自分の男性らしさが脅かされていると感じると、攻撃的な行動をとったり、危険な行動を受け入れたり、女性(または他の男性)にセクハラをしたり、同性愛嫌悪的な態度を表したりすることがある(Alonso, 2018; Bosson et al., 2009; Maass et al., 2003; Weaver, Vandello, & Bosson, 2013; Willer, Rogalin, Conlon, & Wojnowicz, 2013)男らしさは、男らしい振る舞いや偉業によって証明されるだけでな
く、文化的に女性的とコード化されている特徴、特性、または興味(例
えば、ピンクの服を着ることを拒否したり、世話をすることを軽んじた
りする)を避けたり、軽んじたりすることによっても証明される
男らしさを競う仕事とは?
論文では、プログラマーや消防士などの仕事が例示されています。プログラマーの場合は、労働時間数が競争の中心になる可能性があり(=仕事第一主義)、消防士の場合は、燃えている建物に駆け込む準備ができているかどうか(=強さとスタミナ、弱さを見せるな)が重視されます。
ほかにも、MCCは軍隊やハイテク産業のような、歴史的に男性の多い職場環境に存在しやすいと予想されるとのこと。
一方、MCCは常にどこでも同じであるとは限らず、また、どの要素が強調されるかも文脈によって異なるようです。例えば、プログラマーの必要とされるIT企業において、上述のように「仕事第一主義」は求められるかもしれませんが、「強さとスタミナ」は求められない可能性があります。
また、別の研究では、MCCに関して同僚との関係性にも焦点が当てられています。Munsch et al(2018)の研究によると、MCCを「理想的な職場環境」として支持する回答者はほとんどいないが、同僚がこうした規範を支持していると信じている人が多い、とのこと。
言い換えれば、回答者は同僚がMCCを認めていると誤まって信じており、MCCの持続を助長しやすい状況を作り出していたようです。つまり、回答者は、同僚がMCCを認めているという思い込みによって、MCCを強化していたのです。
例えば、MCCのある会社において、従業員は周囲に溶け込むために、個人的にはMCCを拒否していても、公の場ではMCCの規範を支持しているかのように振舞うことがあるようです。
なぜかというと、MCC規範に異議を唱えることは、弱虫で弱音ばかり吐いている、つまり、"自分にはできない "弱虫の愚痴とみなされる可能性があるため、拒否しにくいのだと著者は分析します。
こうした、職場におけるMCCにおいて、著者らは「不安定な男らしさ」の組織的な表れと捉えているようです。自分の男らしさを他者に示し続けなければならず、同僚にも弱音を見せられない、といった「男らしい」という称号がはく奪される不安との終わりのないプロジェクト、と表現されています。
(つらすぎますね・・・)
感じたこと
仕事において行った共同研究で、調査したり研修で扱うなど、個人的には身近に感じているMCCですが、改めて原典を読み返してみると、なかなかに強固かつ根深い価値観だと感じます。
例えば、女性管理職登用の文脈において、昇進する女性は「男らしい」あるいは、「マッチョイズム」の持ち主と見られ、そうなりたくない、という女性社員の考えを生んでしまうこともあるようです。
また、日本に目を向けると、「家父長制」という歴史的に培われた文化があり、これも日本版MCCの一つの要素と捉えられます。
MCCについて話をすると、一定の方々には大変共感されます。他方、「何が悪いの?そうしないと成果でないでしょ」という人もいます。
実際、後者の意見も理解できます。かつての日本では、MCCのような「仕事第一主義」的な価値観が、高度経済成長を支えてきたのだと思います。
しかし、多様性を力に変えることが求められる社会において、インクルージョンを実現するためにも、そして、すべての人が(男性も)生きやすくなるためにも、「マッチョイズム」優先の企業文化は、少しずつ変えていかなくてはならないのでは、と感じています。
(もちろん、MCCの要素がダメなのではなく、成果を出す際には必要なこともあるので、インクルーシブな組織づくりに向け多少弱める、といった感じなのでしょう。)
おまけ
本論文で、日本のことに触れられている部分がありました。
もしかしたら、上述のような「家父長制」的な文化を指して「共同的」と表現されているのかもしれません。