見出し画像

日本共産党 表現規制推進への方針転換 「社会学的フェミニズム」との思想的な"衝突"

先日、日本共産党の2021総選挙分野別政策が話題になった。
文中の「非実在児童ポルノ」の法規制を目指すという部分に対し、「共産党は表現規制へ方針転換した」という失望の声が溢れたのだ。

実際その文面を見る限りにおいては、明らかに法的規制を目指すものだといえる。

総選挙分野別政策   (※注 立法府の議員選挙に向けての発表)
・性の商品化を許さず、法規制を強める
・児童ポルノの定義を改め立法趣旨として明確にする
・社会的合意を得るために幅広い関係者と力をあわせて取り組みます

(なるほど)

今回は共産主義思想の仕組みを辿るとともに、表現規制の方針が提示されるに至る経緯と起きている事を考察したい。

私達は法に従って生きなければならない。尊厳が平等に備わるとするこの国では立法に関わるのも人権(選挙権)、分析をするのも人権(学問の自由)、そして意見を唱えるのも人権(表現・言論出版の自由)である。
議会は立法府、つまり法律を作る機関である。共産党はその議員選挙の公約として掲げたのだ。
きちんと吟味し意見をするのが市民の責務というものだろう。

思想は人より上位にあるものではない。人が思想を扱うのである。
そこを間違うと人は思想を理由に人を殺したり、人そのものを思想の範疇でしか捉えられなくなったりする。

無論、今回当事者達は思想的あるいは論理的な整合性に目もくれず自覚もせず唱えている可能性はある。
何かに夢中になりがちな私達であるのだから、冷静な分析は私たちの助け合いとイコールである。「純然たる正義」などどこにもない。
肝心なのは、今ここに公平公正さを重んじる私達がいるかどうかである。

政治思想や○○主義というものを扱っていくが、今回も難しいものでは全くない。
ではいってみよう。

「性的消費」の発想の根が同じ

この記事では全体を通してお伝えしたい事(見えてくるもの)があるのだが、そのためにまずこの点を指摘する必要がある。
昨今よく見る性別を大前提とした「フェミニズム」(大元の人権運動と中身が別)は性的消費という言葉をよく使う。使っている方がその定義を吟味する様子のあまり見られない不思議な言葉である。
その言葉の理論的背景の部分に共産主義思想に近しいものがあるのだ。
 大元と中身が入れ替わっている昨今の「フェミニズム」だが、その思想の歴史を辿ると面白いものが見えてくる。

そもそも人権は個々人に備わる理性と意志(主体性)を基礎とした理念である。その発祥の背景は、世界観も「人とは何か」までも権威的に規定されていたところから人を解放し、理性の優れた働きと意思に基づく社会を成立させようという動きである。
人権と定められているのは基本的に個人の理性や意志の発揮であり、それを国が抑圧しないよう禁止しているのがいわゆる近代憲法である。
(※作られた制度の恩恵を受ける権利も社会権という人権)

イギリスの革命やアメリカ建国などの背景となった思想だが、フランスではこの思想と共にもう一つの思想が広まったのが共産思想である。

・共産主義のあらまし

(個人の資産保有の禁止と階級社会を闘争で打倒する思想)

歴史的にそのアイデア自体は非常に古くからある。キリスト教的共産主義といって顕著な動きは15世紀頃に見られるものだ。
真剣なキリスト教的共産主義の方には申し訳ないが読者に向けざっくり解説させてもらうと、「神の創ったこの世界で不平等や抑圧は許されない。皆で作った資産は全体で管理をして平等を成立させよう。富を集めて不当な支配をする者は打倒しよう」といった思想である。

フランス革命では様々な思惑が交差した。不当な政治には抵抗しても差し支えはないという部分が人権思想の中に含まれていのだが、共産主義の「支配階級の打倒」という部分である意味一致する。
 明確に異なる部分としては、人権は個人の資産保有を認めるものである点や、政治を改善するための理性的な法整備を示した部分等だが、一番重要なのは未来を規定せず人の選択する自由な意志の存在を前提とする点である。

フランス革命期の共産思想は資産や土地の分配に重きを置くもので初期共産主義とも言われている。
革命による混乱の最中のフランスでは各街に赤い旗が掲げらる様子がみられた。これは「軍隊が近づいている」などの危険を知らせるものとして一般的なものである。
この頃より赤い旗は「革命」のシンボルとなっていった。

 大きな混乱から2回3回とフランスは以後革命を繰り返す事となる。その間に共産主義の発想は啓蒙主義という、理性の力やその可能性と人間性を重視した風潮の中で「科学的な理論」「社会思想」として理論化されていき「共産主義」が確立していく。この啓蒙主義は人権の広まりを支えた時代の流れであった。

支持者が増えると共に、革命のシンボルであった赤い旗は「共産主義」のシンボルとなっていく。 

ちなみに現フランス国旗は三色旗(トリコロール)だが、3回目の革命の際に「赤旗をフランス国旗にすべし」にする動きが起きた(この頃には革命から共産主義のシンボルに)。そうならなかったのは「戦場や血の中を巡った赤旗より自由と祖国フランスの栄光を示した三色旗こそふさわしい」という演説を市民が支持したことによる。以降変わることなく三色旗である。

 この三色旗にはパリの歴史や王政との共存もの道も模索した市民の民主政への願いも含まれている。革命時におけるオランプ・ド・グージュの王の弁護や王政と共和制(いわゆる民主制)のどちらを選ぶかは国民投票にすべきという提唱などは有名だが、悲惨な面が強調されがちなフランス革命ではあるものの人々は求めていたのは政体の平和的な移行である事をもっと知られてもいいと私は思う。

・理論としての共産主義の概要


「科学的な理論」となった共産主義。その大きな特徴としてふたつの点が挙げられる。
ひとつは「人の精神も物質を基礎とし、物理的な法則のように必ず富は偏り階級社会になる」という予言的な歴史観である。これを唯物史観という。
もうひとつは「段階的に階級社会になり、その後に上位の階級を打倒する革命が起きる」という、これも予言的であるが社会の変化に関する解説である。これを革命思想という。

 このような内容を持った共産主義理論に基づき、管理的な社会運営を行うのが共産主義の理想となる。
何らかの理論に基づいた管理的な社会運営を社会主義という(様々な内容の社会主義がある)。「科学的な理論」とされて以降は、理論に頼りながらの社会運営が一応は可能となった。その理論に基づく運営の場合は「共産主義的な社会主義」ということもできる。
 主義主義とややこしいところだが、「特定の理論の中で社会を運営する」という意味の社会主義としては同じグループである。

「社会が段階的に変化する」という発想は、1700年代頃の流行りの発想であった。
そして共産主義とは別の、段階的な発展の社会像を基礎に置いた学問がその頃に唱えられる。それが社会学である。

・社会学内で変えられたフェミニズム


そもそもフェミニズムとは人権は性別で左右されないという発想が基礎である。
平等の市民に認められたはずの参政権(参政権も人権)は、革命を経ても文化的また社会的な固定観念により性別による制限が根強く残った。
社会に責任を持つ市民の半分が政治参加できないのは制度上の欠陥であると多くの人々に指摘されるものであった。人権の平等性の部分にも反するため、社会問題に取り組んでいた数多くの市民団体は自然と女性参政権運動へ参集し世界的な動きとなる。これが女性参政権運動である。
 この動きの中でフランスのある団体がスローガン的に掲げた言葉がフェミニズムである。
日本語には「人権」という便利な言葉がある。人権運動を指す場合は「女性の」権利という断定には注意が必要といえる(性別ではなく個に備わるという重要な部分の誤解を招きやすい)。

そのフェミニズムという言葉が、社会や人が段階的な動きをするという思想を前提とする社会学の中で取り扱われ始めた。
唯物史観を積極的に参考にし生み出された思想をマルクス主義フェミニズムとするなど、「フェミニズム」は分類の名称として積極的に利用されていく。
(ちなみにマルクス主義フェミニズムは「富の偏在による階級が発生する仕組みと関連(または類似)し、男は女性を支配下に置く」「人類の歴史に見られる特徴である」と定義するもの)

こうした社会学が整理したり積極的に発信した「フェミニズム理論」は、人権思想を基礎とする大元のフェミニズムとは明確に別のものである。

日本共産党は社会学発の「フェミニズム」からの影響を、今回大きく受けたのだといえる。
以降は社会学が背景となるものを便宜的に「社会学的フェミニズム」とする。


社会学的フェミニズムと共産主義の衝突


あえて「衝突」と銘打ってみた。

端的な流れとしては、理論の構造に近しさのある社会学的フェミニズムから日本共産党は多くの発想を取り入れてきた。ジェンダーやLGBTや性の商品化などである。
アイデアを参考にするという時点では大きな衝突は起きない。党員の方々も特に気にすることなく、むしろ注目を集めている「フェミニズム」を積極的に標榜する議員は誇らしく思う向きもあっただろう。

しかし、その思想は根本的な部分で異なっていた。
それは「構築した理論で意図的に社会を変化させる」「あくまで性別(女性)を前提とする人間観」の社会学的フェミニズムに対し、
共産主義の理念は「共産主義への過程を念頭においた社会への働きかけ方」「人々は資本主義や自由主義などある中で選択しているという状態」という観点だったのである。

共産主義自体の歴史はともあれ、日本においての共産党は「政策や指摘ではまともな事を言う野党」といった評価がある。これを私なりに解説するなら、政党の理念の根本が理論との照らし合わせや社会情勢の分析に重きを置くものであるため、基本となるルールや議会制度の仕組みに則った指摘をする真面目な人が自ずと多くなる事から生じた評価である(311の原発事故発生以前の安全管理問題の指摘や、差別問題を逆手に取った利権誘導などに真っ向からぶつかった部分など)。
 こうした背景が、基本的人権に基づいた「創作という人の自由や思想に大きく関わるところへ踏み込まない」というスタンスを今まで明確にしてきた理由だといえるだろう。
短絡的な「性的でけしからん」という保守的な決めつけを俺たちはしないぜという思いが見え隠れするようにも私には見受けられる。この辺りは権威的な抑圧を嫌ってきた共産主義思想の歴史的な動きと照らし合わせると面白い(と私は思う)。

社会学的フェミニズムの理論は、男女・支配被支配の理論から「平等」を唱える形で共産党内に登場した。
おそらく上記のような思想的背景の精査までは行ってこなかっただろう。

ここからは以上を踏まえた私の推測である。
今回話題になったあの項目は社会学的フェミニズムの学問的権威性を根拠にしながら、「性的」を理由とする表現に踏み込む法規制を唱える人物が書いたのだ。
日本共産党内では思想的な分裂が起きているはずである。
おそらく「性別性を前提にした思想の影響が際立ち過ぎている」「人権理念に踏み込んでいる」といった感想が生じているはずだ。
しかしそうした感想に対しては「ジェンダー平等に反するのか」「性被害を防ごうと思わないのか」という社会学的フェミニズムの得意とする反論が待ち構えている。
 理論の吟味あるいは思想を精査して慎重な態度を選んでいた議員や党員以外のその多くは、「現代の重んじるべき理論なのだな」とふんわりと受け入れていたことだろう。そして政策として掲げられた以上は日本共産党の基本方針であるからと、批判に反論をしなくてはならない向きがここで生じた。

その結果、日本共産党からの反論にはふたつの方向性が現れる。
基本方針は変わってない踏み込まないというものと、社会学的フェミニズムの反論手法に基づく「批判者を女性への加害を肯定する者」と位置付ける論法を用いたものである。


おそらくこうした状況が起きる、あるいは起きていると私は推測する。

まとめ

政策として総選挙前に掲げたものである以上、党としては批判にやんわりと反論をしなければならない。「共産党を信用しないぞ」というものに「以前と変わりありませんよ」というアピールをするのは自然なことだ。おそらくそのような対応をした人も、内心では少なからず「変わりはないはず」と思っているはずである。
しかしその対応者が女性ともなれば、人権に対する法規制に踏み込むものでも、性被害を防ぐという名目であるため疑問を呈するのは難しくなるだろう。そこから選ばれる言葉は自ずと「被害を防ぐためです」ともなり得る。
 共産党の中ではおそらくこのような、目に見えない大規模な思想の変遷、せめぎ合いが起きているはずである。

どこの党員だとか支持政党がどこだとか関係なく、私たちは目に見えるものに注目しがちであり、言葉でねじくりまわし、攻撃しがちである。
上記のような、混乱へ人々が導かれていく思想的な動きを扱うのは比較的難しいものなのだ。そこから指摘は「共産党は変わったのか」という言葉に集中しがちとなり、それに対し支持者も反論せねばと参加してしまう……


歴史的に見るとこうした目に見えない思想のうねりは、当事者にとって原因のつかみ難い混乱と衝突を引き起こしてきた。一番人を殺めてきたそのうねりとは人の自由意志の有無に関わるものである。

世界はこうなるという予言的な理論は、人はどうあがこうともこうなってしまうという無力感を無意識的にも与えてしまう。また逆に虐げられ絶望の中にいる人は、その予言的な理論に基づいて世界に反撃を加えようとする。どちらにせよ、自分は世界の一部に過ぎないものとして自身の自由意志の力を忘れてしまい自身の行動を理論に沿う反応へと引き込んでしまうのだ。
そこから他者に自由意志があるのが見えなくなり簡単にレッテル貼りを始めてしまう。革命思想のわからないブルジョアだとか、性的加害を野放しにする分からず屋だとか。

人をひとつの思想に縛らないとする人権を基礎におく社会であるからこそ、日本共産党の心ある議員はその時代時代で省みられなくとも指摘すべき問題を指摘してきた。
個人的には学級崩壊を起こしているかのようなある都市の議会の傍聴が思い起こされる。そこには真面目に筋道の通った指摘をする孤軍奮闘の如き議員の姿があった。それは「共産党だからできた」ではなく、その時その場で「指摘すべきはこれである」という個の強い意志の存在が私には見て取れた。

以上である。



これは共産党を支持しろとか特定の思想を信じるなとかそういった話ではない。
この世界のこの時代に生まれた私達が過去から受け継がれる思想やしがらみを客観視するために、ひとつのヒントとして参考となるのを願いながら発表するものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?