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冬の心(1)

 ヴァイオリンは八十個ほどの部品からできている。そのひとつひとつに名前がついている。表板おもていた、裏板、横板、棹、糸蔵、糸巻き、駒、緒止め……、そして表からは見えない胴の内部には、魂の柱、すなわち魂柱こんちゅうと呼ばれる補強材が立ててある。ヴァイオリン製作者は魂柱立てと呼ばれる細長いS字形の工具をf字孔から差し入れて、この柱を調整する。
 この細い木の柱はまさにヴァイオリンの魂だ。ちょっとしたずれで音は大きく変わる。張りも出れば、くすみもするし、割れることさえある。もちろん魂柱だけですべてが決まるわけではない。表板の張り合わせ、駒の形状や位置、表板に貫かれた二つのf字孔の形、すべてが音を微妙に左右する。人間の身体と同じだ。

 引用したのは『愛を弾く女』(ハヤカワ文庫、1993年)の「魂柱」と題した第一章、その冒頭の部分。
 原題は Un Coeur en Hiver(冬の心)、監督のクロード・ソーテと脚本家のジャック・フィエスキの原作で、私が翻訳したことになっている。でも以前の記事で触れたように、これは私が初めて挑んだノベライズである。
 もちろん、依頼してくる人がいなければ、こんな仕事はできない。
 依頼してきたのは、早川書房のSさん。当時、編集課長の地位にあって、直木賞作家の原尞、小池真理子を世に送り出した人でもあった。この人はまた無類の映画好きで、どういうわけだか、翻訳者として駆け出しの私をしょっちゅう新作洋画の試写会に誘ってくれたのである。
 この時期が私の翻訳家人生でもっとも楽しかった時期だったような気がする。フランスで封切りされたばかりの映画を日本の試写室で、日本の誰よりも早く観られる。小さな試写室には数人の映画関係者がいるだけ。なかには有名な映画監督や俳優、評論家などが混じっていたりする。
 映画が終わり試写室を出ると、Sさんと喫茶店に入り、今観たばかりの映画の感想を言い合い、原作小説があればこれを映画の日本での封切りに合わせて翻訳しようとか、映画がつまらなければ、何かおもしろそうな小説を探そうということになる。そうやって彼と何冊の本を出したことか(プロフィールのリストにある早川書房の本はほとんどがSさんが企画したものばかりである)。
 『冬の心』——まだ邦題が決まる前の段階なので——のノベライズをやることになった経緯はもうよく憶えていない。試写を観てすっかり興奮し、その場でノベライズをやろうということになったのだったか、あとでSさんが電話してきたのだったか(電子メールなんてまだ存在していなかった!)、定かではない。
 いずれにせよ、この映画で共演しているエマニュエル・ベアールにしてもダニエル・オートゥイユにしても、このとき初めて知ったのである。映画に関してはほとんど無知な翻訳者にどうしてSさんがノベライズをさせようと思ったのか、今では確かめる術もない。
 はっきりと憶えているのは、非売品のビデオ(DVDなんてものも存在していなかった!)を見終わったとき、Sさんに電話して、どこか適当なヴァイオリン工房に取材に行かせてくれと頼んだことである。

 これから『冬の心』というタイトルのもとに、すでに三十年以上前に『愛を弾く女』として日本で封切られ、映画とタイアップする形でノベライズされた作品を、その制作過程のエピソード、裏話を含めて、ここに紹介していきたいと思います。
 すでに『フランスの女』の抜粋紹介でも触れましたが、ノベライゼーションは私にとってあくまでも翻訳の延長線上にある仕事でした。
 映画作品の小説化は、けっして映像をなぞるだけではすまされません。まさに映像の「行間」を読む仕事であり、ある意味では小説以上に映画は沈黙している。その沈黙を言語化すること、けれど解説するのでも説明するのでもない。ノベライズにもまた行間が存在する。そのような作品に仕上げたかったのです。
 私はこの試みが、これから翻訳という仕事に挑みたい、小説家になりたいという野心を抱いている青年——中年や老いの域に入っている人でもかまいませんが——、そういう人の役に立つことができればと念じています。
 今回はイントロダクションのようなものですが、次回からは一部有料にしようと思っています。これもまた新たな試みであり、挑戦でもあります。挑戦は若い人だけに与えられた特権ではないと信じて。編集作業はいつものように娘に任せます。

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