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戦後教育思想の四つの誤謬

戦後の教育思想には四つの誤謬がある。それは「民主主義」「平和主義」「自由主義」「平等主義」のはき違えである。


●「民主主義」のはき違え

まず第一の誤りは「民主主義」のはき違えにある。それは“多数の当事者の参加による多数決の決定が常に正しい”という誤解である。
当事者を排除することが当事者の利益になる場合には、民主的に決定してはいけない。この点をはき違えると、誤った「子供中心主義」になってしまう。

医者と患者、監督と選手、指揮者と演奏者、指揮官と兵士、教師と生徒、つまり専門家と素人との関係は平等でも民主的でもない。両者の間に民主主義や平等主義の原理を持ち込み、多数決によって民主的に決定する判断が正しいとは到底考えられない。

医者や戦場の指揮官が、患者や兵士の多数決による民主的決定に従っていたら、失敗することは火を見るより明らかである。

民主主義の本質は独裁の排除にあり、当事者の参加による多数決の決定というのは民主主義の一要素に過ぎないにもかかわらず、この要素を民主主義の本質であると拡大解釈をし、誤解したところに根本的な誤りがある。

素人の多数決を絶対視するのは「悪平等主義」という言葉にならえば、「悪民主主義」と言うべきであろう。

それ故に、市川昭午(教育学者)は「イギリスの言い伝えに、“children should be seen,not heard”というのがある。大人は子供に目を離すべきではないが、子供の言うことを聞き入れる必要はないという意味であろう。この背景にあるのは、子供は大人によって保護されるべき存在であって、大人と対等に口を利ける存在ではないということである。これはイギリスだけでなく、他の国でも比較的共通した考え方と言える」と指摘している。

この点がもっとも鋭く問われるのが「児童の権利条約」であり、「子ども家庭庁」の論議である。

同条約の第三条には「児童の最善の利益を主として考慮する」と書かれているが、児童にとって何が最善の利益になるかという点が最大のポイントと言える。

本人にとって利益であることをもって行為の自由に干渉することを正当化する「父権主義」を「パターナリズム」という。教師と生徒の関係は、前述したような専門家と素人という意味では決して平等でも民主的でもない。

例えば、カンニングや万引きをした生徒の処分を当事者の参加による多数決の決定で決めるわけにはいかない。しかし、このパターナリズムが本人の利益という際どい一線を越えて度を過ぎると、子供の自律性を阻害する過干渉となる。

そこで、子供の自発性を重んじるボランタリズムとパターナリズムとをバランスよく調和、共存させることが、「子供の権利」を生かす上で最大の課題となるのである。

換言すれば、子供の気持ちを無条件に受容する「母性原理」と、子供のわがままと対決して子供の“壁”になる「父性原理」をうまく使い分け、調和、共存させる「教育の論理」が求められるわけであるが、この点をはき違える人が多いことが問題なのである。

 子供の意見を「聴く」ことと、それに「従う」ということの区別がつかない人が多い。「子供の意見を聴かないとわからない」というような人が子供の意見を聴くと、必要以上に聴く傾向があり、そういう人に限って、子供の意見を聴くということは、その意見に従うことだと錯覚する人が多い。

子供の成長のためには、親や教師が対等な関係ではなく、一段高いところに立って「子供の権利」とは何かを考え、パターナリズムとボランタリズムを人、時、所に応じて使い分けていくことが必要である。その意味では、決して大人と子供の関係は平等でも民主的でもないのである。

現代は奇妙に甘えの充満している大人不在の社会である。大人のような子供と子供のような大人が増え、大人と子供を隔てていた境界線を喪失しつつある。

その意味では、現代は極めて大人になりにくい時代であるといえる。親や教師が子供を甘やかすと、子供は大人に甘えられなくなる。それは、甘やかす大人が実は子供に甘え、子供に迎合する関係になっているからである。大人と子供の確執という緊張が欠落した大人不在の社会は、単なる「馴れ合い」の社会と化してしまうのである。

●「平和主義」のはき違え

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