こんな人生もある
▶︎《簡単なProfile》
2010年から2021年まで足掛け12年にわたり、二つの私立大学(地方の小規模な芸術系の大学)で学長を務める。専門は政治学。
1996年から2021年まで四半世紀にわたり、政治学者として「日本の音大」改革に取り組む。
2021年3月末にてセミリタイア。2023年卯年に還暦を迎える。
現在、老後の不安を抱えつつも、札幌でのんびりと暮らしている。
2023年4月、noteをプラットフォームにオンラインサロンをはじめる。
noteを舞台に はじめるCamp@Us 本格始動!
音楽でも聴きながらお読みください。
新人類とよばれて
1963(昭和38)年、三人兄弟の次男として東京都町田市に生まれた。
敗戦から18年目。幼少の頃には、上野や浅草あたりで駅の通路などで物乞いをする傷痍軍人の姿も見かけた。
「もはや戦後ではない」と1956(昭和31)年の経済白書は宣言したが、まだ戦争の傷跡をかすかに感じることができた時代だ。
戦後復興が終わり、高度成長が軌道に乗り始めた時期でもある。給料は毎年上がり、生活は年々豊かになっていった。
暗く貧しかった時代は過去のものとなり、「消費は美徳デアル(1960年)」「末は博士か大臣か(1963年)」「大きいことはいいことだ(1968年)」とばかりに、明るい未来がやってくると信じることができた。
そんな私たちの世代も1980年代には、「共通一次世代」、「新人類」などとよばれることになる。
平均点のコドモです!
小学校、中学校時代は、よくいえば真面目な優等生タイプだった。悪くいえば、人に抜きん出るものが何かあるわけでもなく、さしたる取り柄のない小さな人間だった。
宿題(とくに漢字ドリルと計算ドリル)が大っ嫌いで、家ではまったく勉強しなかった。夏休みの宿題はいつも最終日の間際になってから取りかかる。毎日の宿題は朝になってから、学校に行く前と行ってから大急ぎでやる。とにかく土壇場にならないと取り掛からないタイプであった。
それでも平均点だけはよかった。勉強の面でも、体育など他の面でもそうだった。
小学校の高学年になるといろいろな大会に出る機会が増えてくる。合唱コンクール、陸上大会、水泳大会、自転車の安全な乗り方コンクールなんていうのもあった。
5年生の終わり頃、音楽の時間にひとりずつ、先生が叩いたリズムと同じリズムを叩かせるという課題があった。あとで、数人が呼び出され、6年生になったら、鼓笛隊に入り打楽器を担当するようにとのことであった。
女子生徒は数名ほど、小太鼓や中太鼓を担当。男子1名は大太鼓、そしてもう1人の男子生徒である私はシンバルを担当させられた。シンバルといえば「お猿のおもちゃ」のイメージしかなかったので、すごく嫌で恥ずかしい思いをしたものである。
音楽を除いて小学校時代の成績はほぼオール5だった私が、唯一「2」を取ったことがあるのが音楽であった。いやいやながらやらされたことではあったが、それまで音楽には苦手意識しかなかった私が、音楽の楽しさと難しさと深さに触れることができた貴重な機会となった。
6年生になってしばらくして、音楽の時間に、ひとりずつ立って歌を唄わされた。合唱コンクールに出場するメンバーを見つけるためだった。数日後、呼び出されて合唱部に入りなさいとのことであった。「変声期前のボーイソプラノだね」などと言われ、ちょっと気恥ずかしかった記憶がある。ただし、音程が安定せず、最終的には補欠となった。コンクール当日は出場者と同じ正装をして客席で聴いて応援した。
体育の時間に、陸上の各種競技の計測が行われた。私は幅跳びと高跳びの候補となった。これも大会当日は補欠となり、大会では計測係などを担当することとなった。
水泳の時間に、やはり計測が行われた。私は平泳ぎの選手になった。補欠ではなく選手として市の大会に出場したが、結果は、びりっけつだった。
自転車の乗り方コンクールというのもあった。これも最終的に補欠となり、会場で仲間を応援する立場となった。
ひとつだけ言い訳をすれば、この小6の夏は、鼓笛隊、合唱、陸上、水泳、自転車、そして地域のキャンプリーダーと、6つをかけもちする状況だった。それぞれ週に2〜3日の練習があるのだが、私はすべての練習に参加することができない。他の人に比べて、練習量は自ずと少なくなる。月曜日は鼓笛隊、火曜日は合唱といった具合で、日によってはダブルヘッダー、トリプルヘッダーのこともあった。土日も含めて、いわば部活まみれの一年であった。
いずれにせよ、補欠だらけの私の小学人生はこうして幕を閉じた。
マルチタスクな人生、なにか一つのことに秀でるのではなく、いろんなことをそれなりに無難にこなす、スペシャリストではなく、ジェネラリスト的な体質はこの頃からのものである。
部活ばかりしていた中高時代
中学・高校時代は軟式テニス部に所属した。やっぱり勉強はあまりせず、土日も含めて部活ばかりやっていた。
成績はそこそこよかったが、最終学年に近づくと進学と受験という関門が迫ってくる。この頃になると、定期試験や実力試験、模擬試験などで、なぜか突然よい成績をとりだすヤツが出てくる。なにをしているのかといえば、受験勉強、すなわち試験で点数をとるための勉強をしているらしいのだ。
わからないことがわかること、できなかったことができることには、モチベーションが働き、興味・関心がわいたが、点数をとること自体にはあまりモチベーションがわかなかった。点取り虫のガリ勉にだけはなりたくないと強く思っていた。当時のCMで、「天才秀才ガリ勉くん、点取り虫にはなりたくない!」とかいうのがあって、ガリ勉と点取り虫を軽蔑していたのである。
とはいえ、まわりが試験に向けてガリ勉をしてよい点数をとっていくのをみて、さすがに置いてけぼりになるのはまずいと思い、とにかく試験前だけは勉強するようになった。といっても実際にやったのは、試験の前日に次の日の科目の試験範囲を復習して頭に詰め込むだけ。ところがこれが効果満点であった。試験の点数は見事に上がった。それまでは試験範囲の勉強や復習もせずに試験に臨んでいたのだから、当たり前の話である。
そんなこんなで、高校受験も大学受験も自分なりにうまくいったと思っている。受験を通じて学んだことは、ガリ勉はときに必要だということ。それでも点取り虫にはなりたくないという気持ちだけは変わらなかった。
「たかはしはうまくやったな」。大学受験を終えて高校に報告に行ったときに、副担任だった体育教師に言われたひとことである。
高校は県でもトップクラスの進学校だったので高校2年の終わりには部活を卒業する。高校2年の秋の修学旅行が終わると学年全体が完全に受験モードに切り替わる。入学時には上位10%以内だった成績はこの頃には真ん中よりも下になっていた。修学旅行後の進路面談で、担任の物理教師に「こんなんじゃ◯◯大にもいけねぇな」と言われたことで、ようやく重いお尻に火がついた。
部活を休んで、ガリ勉を始めた。高校1年からの内容をすべて最初からやり直した。ラジオ講座、進研ゼミ、Z会もやった。高2の11月下旬からの数ヶ月は、深夜2時〜3時まで毎日ガリ勉した。高3からは文系と理系クラスに分かれるのだが、学年最初の実力試験で、文系全体で(確か)3番になった。1番と2番は東大志望の生徒であった。
これですっかり安心したのか、再び部活に顔を出すようになった。勉強はそこそこのペースに落として、下級生に心配されたりうとまれたりしながら夏まで部活を続けた。
副担任の体育教師はサッカー部顧問だった。テニスコートの隣がサッカーコートである。日が暮れるまで部活をしている私の姿を見ながら「お前、部活やってて大丈夫か?」などと茶化されたものである。
勉強は面倒くさい、楽しいことをしていたい。要するに、なにかを極めるとか、トップを目指すとか、そういうモチベーションに欠けた人間なのだと自分では思っている。ひとりで孤独に努力するというのも大の苦手である。
やんちゃな学生時代
そんな私は、北関東の高校から、名古屋にある国立大学の法学部に進学した。それまで東北もしくは東京圏の国立大学を志望していたのを変更して、名古屋に決めた、と高校の進路指導面談で担任に言ったとき、「名古屋かぁ〜、最近は例がないなぁ〜」とちょっと困った顔をされた。
とにかく、みんなが行かない大学に行きたかったというのが本音であった。が、自分なりにいろいろと調べて、自分にはその大学が合っていると感じたのが決定的な理由であった。この選択は、のちの人生にとっての大きな分岐点だったと今でも思っている。別の大学を選択していたら、間違いなく別の人生になっていた。
学生時代は、一人暮らしと自由を手に入れた。
24時間、365日、なにをどう使うか自由である。最初のころは授業にも出たが、だんだん出なくなった。大学に入学したのは1982年。大学は「授業に出席しなくても単位が取れる」時代であった。
ちなみに、学生が授業に出なければ単位をとれなくなってきたのは、1990年代以降のことである。皮肉にも、1991年の大学設置基準の大綱化により文科省による規制が緩和されてのち、大学の自己評価が求められ、単位の厳格化が言われるようになってからのことである。
私が進学した大学、とくに法学部は、極めて「自由」であった。卒論を含めて必修科目は無し。ゼミを取らなくても、卒論を書かなくても、総単位数さえ取得すれば卒業できた。すべては学生の自主性と自律性、個々の学生の自覚と責任に委ねられていた。いまの時代なら、なんて無責任な学部だろうと思われるだろうが、当時の学生には、そうした自由を与えられた誇りと自覚と責任感が強くあったように思う。
こうした「自由」を与えられて、教養部3年間と学部3年間の計6年間を私はかなり自由気ままに過ごした。
アルバイトもたくさんした。家庭教師をかけもちして学生としてはそれなりの収入も得た。大学では、サークル活動と自治会活動、そして学生運動に時間を費やした。夜は、いろんな人と飲み歩いた。
朝、大学に行く。構内の喫茶で朝食をとる。そのまま、新聞を読み、雑誌を読み、本を読みしているうちに、いくつかの授業は自主休講となる。どうしても出なければ単位をもらえない授業だけ頑張って、出たり出なかったりした。朝から居座り、ランチもそのままその喫茶で、なんてこともよくあった。
昼休みや休み時間にキャンパスを歩き、友人を探す。そのまま話し込んだり、打ち合わせをしたり、夜飲みに行く約束をしたり。
大学3年目、教養部留年の1年間は、とるべき単位数も少なかったので、学生活動、アルバイト、飲み会、etcの日々であった。学部に進学してからは、ゼミだけ出席した。卒論は書かなかった。学部は2年間で卒業できたのだが、院試を寝倒し、翌年の院試に向けて留年することにした。私は卒業すると言い張ったのだが、実家の家族が心配して、学費は出してあげるから留年しなさいということで、しぶしぶ従うことにした。
翌年、無事に院試に合格。同級生より2年遅れての卒業。研究者としての人生が始まることになった。
研究者の道へ
1988年、法学研究科の政治学専攻に進学した。専門は政治学である。
そもそも法学部に進学したのは漠然と弁護士になりたいという気持ちがあったからだが、法律の細かい条文や解釈に嫌気がさして早々にあきらめた。学部ゼミで政治学系のゼミに入ったことで政治学に興味をもちはじめたことが、その後、大学院に進学する直接的なきっかけとなった。
学生時代には政治的な活動も行っていたので、もともと政治には興味があったのだが、政治学を志したのには、1980年代に学生時代を送ったことが大きかった。高校時代から政治に興味をもちはじめ、その時々の日本の政治状況についても関心を寄せるようになっていた。
以下、1980年代の主な出来事を挙げてみる。
1980年、自民党の党内抗争によるハプニング解散、総選挙期間中に大平正芳首相が急死、その後の鈴木善幸首相に失望する。
1982年、4月に大学に入学。入学早々、教養部の教官有志連名による「平和への決意〜若い諸君に訴える」が出され大いに刺激を受ける。6月〜7月、SSDⅡ(第二回国連軍縮特別総会)開催、反核平和運動が盛り上がる。11月に中曽根内閣が発足、日米は「運命共同体」、日本は「不沈空母」、「戦後政治の総決算」などの発言がなされる。
1983年、田中角栄元首相に実刑判決。
1984年、映画「風の谷のナウシカ」劇場公開。グリコ・森永事件。第二次中曽根内閣発足、電電公社民営化法案成立。
1985年、電電公社がNTTに、専売公社がJTに民営化。男女雇用機会均等法成立。中曽根総理、終戦の日に靖国神社参拝。プラザ合意、のちのバブル景気につながる。久米宏キャスターによるニュースステーション放送開始。
1986年、男女雇用機会均等法施行。衆参ダブル選挙、第三次中曽根内閣発足。土井たか子が女性として初めて社会党の党首になる。
1987年、国鉄分割民営化、JRグループ発足。竹下内閣発足。バブル経済はじまる(1991年まで)。日経平均株価が2万円を突破。
1988年、日経平均株価が3万円を突破。
1989年、昭和天皇崩御、翌日から平成へ。消費税はじまる。リクルート事件で竹下内閣総辞職、宇野内閣発足。参院選で自民大敗、在任69日で宇野首相辞任へ。
そして、1990年代には、「政治改革」が大きな政治テーマとして浮上することになる。
80年代はいろいろな意味で転換期であった。
私にとってインパクトが強かったのは、「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根内閣がダブル選挙でも圧勝し、3公社の民営化が実現したことであった。
新自由主義の時代が始まり、男女平等が新たな時代に突入した。
戦後初の天皇崩御があり、名実ともに戦後が終わった。
反核平和運動の低迷、学生運動の衰退も顕著であった。エコロジー問題への関心が高まった。
中曽根内閣退陣後の自民党政治の末期的症状、野党を含む戦後政治の末期的状況に、政治学者として絶望感と無力感を感じつつ、その後テーマとして浮上した政治改革に期待を寄せることになる。
大学院は博士前期課程2年間、後期課程3年間をスムーズに修了し、そのまま法学部の助手として採用された。3年間の任期制であった。
3年任期の助手を終えるまでに、どこかに就職しなければならない。最終的に名古屋の私立音楽大学に専任教員として採用された。1996年、32歳のときである。
▶︎▶︎たかはしはじめのより詳しい経歴については、Takahahi Hajime公式サイトのAboutをご覧ください。
▶︎▶︎1993年、助手になった頃にパソコンを購入。ここから私のSNS遍歴が始まった。これも私のもうひとつの自己紹介となっている。
よろしければ、ぜひ併せてお読みください。
職業としての大学教員
こうして、大学教員としての人生が始まった。小中高大とすべて国公立だった私が、初めて《私立》の世界を知ることになる。
地方の小さな私大の悲哀
1992(平成4)年から日本の18歳人口が減少し始めた。92年の205万人が、2000年には151万人に激減する。さらに2010年には120万人まで減少する。
地方の小さな私大は、少子化の影響をまともに受ける。しかも入試の偏差値が低い大学ほど、入学者の激減につながりやすい。
91年にバブル経済が崩壊して以降、日本経済は低迷した。学費の高い私立音楽大学は景気の影響も強く受ける。
私立の音楽大学に私が就職した1996年には、18歳人口はすでに173万人に減少していた。それまで、ある意味ぜいたくに不合格者を出していたのがウソのように、定員割れが現実味を帯び始めた時期である。
しかし、教授会メンバーの意識はそう簡単には変わらない。自らが変わることには極めて消極的なのである。現実を受け入れたくないのだ。生き残るためには、現実の変化に対応して自らを変えなければならないのに、なかなかそれができないのである。口をひらけば「昔はこうだった」という話ばかり聞かされた。当時はまだ、教授会の権限が強かった。
しかも音大の教授会である。当時、一般教養の教員も8名ほどいたが、大多数は音楽の教員である。法学部出身の私にとっては、もたもたとした会議の進行がまどろっこしくて仕方がない。毎回ほぼ同じ議論がくりかえされ一向に結論にいたらない状況も苦痛でしかなかった。まともな原案作成者がいないので、つねに平場の議論が繰り返されるのだ。
政治学者としてそれなりに名を上げるつもりでいた私は、専任1年目は「とにかくかかわらない」ことを心がけた。当時の私は、一般教養ではなく政治学の専門教員として、数年のうちには法学政治系の学部のある大学に移りたいと考えていた。
いまの私学では考えられないことだが、当時の担当授業は週3コマだけであった。90分3コマの授業を年間30週(当時は26週ほど)きちんとやりさえすれば、あとは教授会といくつかの委員会に顔を出すだけで、ほぼ「年齢」万円の月給がもらえた時代である。
授業と会議以外の時間は、さっさと自宅に戻り、自分の研究に時間を充てていた。ところが、この生活は1年しかもたなかった。
その後、大学運営にどっぷりと浸かっていくことになるのだが、きっかけは二つあった。一つは、学生への責任である。もう一つは、原案作成や根回しを含めて、自分でやった方が早いしストレスも感じなくて済むということであった。
赴任1年目の年度末に、ヨーロッパ研修旅行というのがあった。音大3年生を引率して、2週間のぜいたくなヨーロッパ研修に出かけるというものだ。2週間は貴重である。旅行のあいだ、空いた時間を研究に充てようとスーツケースには和書・洋書数冊をつめ込んだ。離陸の飛行機の中で、さっそく洋書をひらいた。が、数分もせずにもろくもこの目論見は崩れ去った。
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