岡潔との対話⑵

<質問>先生の著書『紫の火花』とか『昭和への遺書』とか読ませていただきましたが、神話や神道、仏教の関係についてどのようにお考えでしょうか?
<岡>人には平生の心の奥にもう一つの心があるんです。平生の心を第一の心、その奥にある心が「無私」の第二の心です。第二の心が働いてるから第一の心の働きがあるんですが、人はこれを知らない。東洋人は知ってたんですが、欧米人は知らない。日本は明治以後欧米の真似をしていますから、段々その第二の心を知らんようになった。
 しかし、この第二の心、無私の心が真の自分でね、仏教はそう教えた。これを「真我」と言ってるんですね。神とか仏というのはその第二の心のことです。人は皆神なんです。ただ眠れる神なんですね。神と言っているのは目覚めた神なんです。その神のことを仏教では仏と言ったり、目覚め方が不十分な時は「菩薩」と言ったりしてるんですが、同じものなんですよ。…
 坂本竜馬は明治維新前に死にましたが、日露戦争の時、皇后陛下の夢枕に立って、「日本はこの戦争に必ず勝ちますから、あまり御心配なさらないように天皇陛下に申し上げてください」と申し上げたと言われている。
 第二の心の中には時間も空間もない。時間、空間を超越している。第二の心は時間を持たないが故に不死です。道元禅師は次のように言った。

 諸仏のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覚を残さず、群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。

 群生の生は衆生という意味ですね。これが第一の働きかけ方。第二の働きかけ方は、自然の風物と現われ働きかけること。道元禅師はこれを次のような歌に詠んだ。
  春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪すぎて冷しかりけり
 第一の働きかけ方と第二の働きかけ方を天つ神、第三の働きかけ方を国つ神というんですね。そうすると我々が他の素晴らしい行いを聞いて感銘するのも、心に素晴らしい考え起こるのも、春夏秋冬、晴曇雨風、千変万化の自然に接して感化されるのも、みな神々が働きかけているんだと言えますね。

●東洋の宗教と西洋の科学の融合
<質問>先生は色紙に、「東洋の宗教と西洋の哲学とを融合して生命の科学を作り、それによって新しい道徳、学問、芸術、宗教、教育、経済、政治を作り、それを実地に応用して理想的な国を造ろう」とお書きになっていますが、これはどういうことか具体的にお話ししていただきませんでしょうか。
<岡>西洋の学問・思想は時間・空間の枠に閉じ込められていて居る。カントは「時間・空間は先験観念である。自分はこれなしには何も考えられない」と言っている。西洋の思想・学問で時間・空間の枠の中にないもの、枠から外に出てるものは何一つない。キリスト教の天地創造は、神が天地を創造するより前に、時間・空間があると言っている。
 東洋は自然もからだも映像である、第二の心だけが実在し、第二の心の中には時間も空間もないと言ってるんです。今日では時間とか空間とかいうものの実在を証明できると思ってる数学者は最早一人もいない。西洋の学問・思想の一切は、視覚というものに支えられて初めてあるんです。結局五感に訴えてこないものは無いのであるという思想を持っている。これが唯物主義ですね。
 この唯物主義に基づいて四百年以上も自然を科学した。素粒子というものが見つかり、物質は総て素粒子から成っている。また質量の無い電気とか光とかいうものも総て素粒子によって構成されている。素粒子群は安定な素粒子群と不安定な素粒子群に分かつことができる。最も長命と言われてるものでも百万分の一秒、普通は百億分の一秒、最も短命なものは一万兆分の一秒というものも知られている。
 そうすると自然はじっと存在するんじゃないんですね。五感が存在すると思うだけであって、存在じゃない。仏教が自然は映像であると言ってる方に段々近づいている。不安定な素粒子は極めて寿命が短い。電子というのは安定な素粒子群の代表的なもので、これは質量を持たんのです。そうすると安定しているのは位置だけであって、内容は絶えず変わっているのかもしれない。それで、自然は映像だと仏教は言っている。安定な素粒子と言っても、安定しているのは位置だけであって、内容は絶えず変わっていくのである。自然は実在であるか、映像に過ぎないかっていうのは大変な問題であって、そこが変われば、一切がまるで変わる。

●仏教の四つの智力
 仏教の言うことを信じなかったらどこが一番困るかと言うと、生命現象ということが一つもわからなくなってしまうことです。生命現象はなぜ見えるのか。この問いに対して、自然科学は一言も答えることができない。仏教に尋ねますと、これは第二の心に「成所作智(じょうしょさち)」という智力が働くからだと教えてくれる。
 また、人は立とうと思えば立てる。この時全身四百いくらの筋肉が同時に統一的に働くから立てるのであるけれども、どうしてこういうことができるのか。これを自然科学に尋ねますと、やはり一言も答えられない。仏教に尋ねますと、これは第二の心に「妙観察智(みょうかんさっち)」という智力が働くからだと答えます。
 松の作った含水炭素はどこへどう使われても一滴一滴みな松になり、竹の作った含水炭素はみな竹になるのは何故であるか。自然科学は勿論答えられません。答えられないだけじゃない。そのいかにも不思議であるのを、不思議とさえ感じること。これは何故であるかと仏教に尋ねますと、仏教はこう答える。植物にも第二の心はある。動物にしか無いのは第一の心だけである。その第二の心に「大円鏡智」が働くからである、と答えます。
 人本然の心というものは、他が喜んでおれば嬉しく、他が悲しんでおれば悲しい。何故人の心はそんなふうなのかと尋ねますと、自然科学はただびっくりしてしまう。そんなこと不思議がるとはひとつも思っていない。これ、生命現象ですよ。仏教に尋ねますと、それは第二の心に「平等性智(しょうち)」という智力が働くからである。智力は知・情・意に働くんです。「平等性智」は情に働いたんですね。そしてなお言葉を添えて、「平等性智」が大宇宙を支えているのである。
 西洋の学問・思想の一切は、ただ生命の残した痕跡をあげつらってるだけで、生命そのものについては一言も説明していない。それで東洋の宗教、すなわち第二の心というものがあって、それに四種類の智力が働くのである。時間・空間を超えている。だから勿論五感ではわからないが、第二の心というものが有るのだと、これを指して宗教というのです。これを取り入れて、自然をもう一度科学し直すべきである。そうするとやや生命現象というものがわかってくる。その後、人の世は如何にあるべきかを考えていくべきである。おわかり願えたでしょう。生命現象をひとつも知らないで、国をかくすれば良いなどと、出鱈目を言ってるんです。何も知らないということを知るべきです。
<質問>それによって新しい道徳とか学問・芸術とか…
<岡>何よりも道徳。今は自己中心にやるのが「自主的」だなどと言っている。ところが真・善・美すべて第二の心の世界のものですね。その第二の心は「無私」です。だから何よりも、それが道徳的であるためには、それが無私でなければならない。人は死ぬものとして、いろいろ良いとか悪いとか言ってるでしょう。人は「不死」です。すっかりやり直さなきゃいけない。大体欧米の真似をしていたら「不道徳」ですよ。
<質問>理性と知性の区別とその内容は…
<岡>「平等性智」の世間智態、これを理性と言うので、理性では駄目です。直に「平等性智」でなければ駄目です。理性でいろいろ処理するから、人類が滅びそうになってる。知性とは「無差別智」ですね。第一の心は感情・意欲・理性の主人公です。その理性が知です。感情が情です。意欲が意です。影が三つに映るんでしょう。本当は心は一つの働きでしょう。分けるべきものじゃないでしょうね。「無差別智」ですね。

●肯定と否定の間一神道と「虚の中心」
<質問>仏教は「時」というものについては言っていないと先生はおっしゃっておられますね。金剛経とか道元禅師の三世心不可得の三世などは、時ということとは違うのでしょうか。
<岡>時とは何かとはどこにも言っていない。仏教は時というのは説明していない。六千三百年というようなことを考えた。これを肯定と否定の間というんです(笑)。おわかりになりましたか。否定できない。だけどこんなん、肯定できるはずがない。
<質問>時を説いていないと、欠けるものがあると…
<岡>隙間が空くでしょう。そこへ神道を押し込もうと思った。肯定と否定の間です。要は日本民族が一つに団結しなきゃいけない。日本民族が一つに団結するためには中心がなきゃいけない。その中心は伊勢神宮と万世一系の皇統です。どちらにしても神という言葉が要る。それで私は肯定と否定との間において「神」という言葉を説いているんです。日本民族の滅亡を何としても食い止めたいと思うからです。
<質問>現在の憲法の天皇制について、どういうふうにお考えでしょうか。
<岡>いやあ、憲法いけません。今上陛下は「虚の中心」。人は仕事はしたいが責任を持つのは嫌だと、こんなふうでしょう。ところが、今上陛下は責任は悉くお持ちになったが、仕事は何もなさらなかった。つまり、裁可は総てなさいましたが、裁決はひとつもなさらなかった。「虚の中心」というものがちゃんとできてる。第二の心の本体は、一口に言えば「空」です。政治において「虚の中心」というものをつくった。これは擱筆大書すべきことだと思う。政治の中でちゃんとできているのは天皇だけであって、後は全部間違っている。憲法も勿論変えなきゃいけない。


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