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我々はどう生きるか(仮)

現代において、金銭の価値は相対的に低下している。いま、最も価値が高く世界共通的な通貨(のようなもの)とは何か。それは「時間」である。

近代以降、人類はイノベーションによって時間をコントロールできることに気がつき、それを実現するべくありとあらゆる知識やお金を膨大につぎ込んできた。 代表的なものが交通とコンピューターだ。

前者における最大の発明は車輪だ。 車輪によって、それまでの歩くことから何かに乗るということを日常的に行うことになったことで、時間を有意義かつ効率的に使えること成功した。これによって、人類はフロンティアの開拓に邁進することになる。 特に、蒸気汽関の発明により鉄道や自動車が人類を飛躍的に進歩させた。 それにより金銭を持つ裕福な人たちは貧しい者よりも時間を極めて有効的に使えるようになった。 

コンピュータもそうである。 コンピューターは企業から家庭に進出し、今では1人1台もしくは数台のコンピュータを所持している。 コンピュータが行う情報処理において時間が絶対的な地位を占める。 情報の処理速度は速ければ速いほど優秀である。 人類はコンピュータの処理速度を上げることに狂喜乱舞し、社会を着実に変えてきた。

このような発明品によって、人類において時間というものが極めて大きな存在に変化してきた。しかし、それらを発明した人類そのものは変化できなかった。

現状、人類は地球上の生態系のトップに君臨しているがそれは数々の武器を背負った状態の時のみに限る。生身の状態では限りなく弱い、弱すぎるほどだ。 その弱さを人類は「時間」を獲得することで補ってきた。しかし人間はいつからか時間を重要視しすぎてしまったように思う。近代以前は人と時間の相対的関係性は前者は優位だった。なぜなら人間は主体であり時間は客体だからである。しかし現在は、コンピュータを媒介として時間が人間を管理するような主体的存在になりつつあるため、時間の方が優位的な存在になっているのはないかと感じる。


◯ 時間について

時間とは幻想である。

その時間と言う概念自体人間が作り出したものである時点で幻想だ。対して人間はリアルである。その場に存在するものは総じてリアルである。時間は幻想であり、人間はその幻想を獲得するためにこれでもかと追求してきた。それを実現するための手段として優秀だったものが資本主義というシステムである。

今までその幻想を追求する中で人類は様々なものを収奪してきた。一つは環境である。地球温暖化がまさにそれであるが、今回の主題から逸脱するため触れないこととする。

もう一つは人類そのものだ。 

資本主義の発展は、 人類が時間と言う幻想を獲得するために非常に役立った。 その中で人類は同じ種族の中でも劣位的な人間を利用した。植民地はまさにそれであり、それは今日でも先進国途上国と言う上下構造に表出している。悲しい哉、時間の獲得という最大目的のために同種族である人間を、他の生物同様に扱ったのだ。

だが、近代以降は人権についてうるさくなったので、今度は彼らを生物ではなく機械の一部として扱い始めた。フォーディズムがその典型であり、そのDNAは第二次世界大戦後の高度工業化社会に、そして今日のGAFA中心社会に表出している。GAFA中心社会ではより陰湿な収奪が行われていると感じる。先進国と途上国という上下構造を飛び抜き、遂に先進諸国内においても行われているのだ。それは、GAFA並びにITジャイアントのサービスを日常的に利用する我々である。

いいかげん気付くべきである。

人類は時間を獲得するために様々なものを収奪してきた。環境、劣位的人間、そして今日における対象は我々自身なのである。既に収奪対象は限りなく少なくなってきたため、かつては収奪者であった我々自身が自らを喰い合うという狂気的なことになっている。


◯ タイパについて 

その代表例が「タイパ」という言葉だ。

人間は2000年の間、脳も骨格も大して進化していない。しかし、人類による技術的発展と共に、モノ・カネの量は膨大に増えた。時間という幻想を追求する中で、より増加したものは情報である。現代人が浴びる情報量は江戸時代の一年分、平安時代の一生分と言われている。だが、脳の構造は大して変わっていない。コンピュータは膨大な情報を処理することにたけているが人間の脳はそこまで優秀ではない。人間が最も秀でている能力は、豊かなイマジネーションによる創造力である。

幻想と創造性は相性が良い。どちらも無限拡張性を備えているからだ。ただ、人間は少し行き過ぎてしまったように感じる。SNSとスマホというものを使うことで、それまで全くの無関係だったものを「時間的」収奪の対象として、より幻想を獲得するスピードを上げようとしたからだ。

つまり現代においては、マルクスの指摘するような資本家と労働者の関係性における収奪などは稀有であり、スマホを持つ者たちの時間を収奪することが可能になったのだ。また、時間の収奪対象だった者たちは、気付かないうちに心身も収奪されてしまっている。SNSに蔓延る罵詈雑言や、本来知らなくてもいいニュースを目にし、耳にすることで、時間や心身の余裕を剥ぎ取られる。いいね数が多くても我々は救われない。いいねをする人たちは助けには来てくれない。そんな者たちからのいいねの数に一喜一憂し、心身を犠牲にしながら生きていくことになんの価値があると言うのだ。

幻想は無限であるが、リアルな存在は有限である。

だから厳密に言うと時間そのものは無限だ。しばしば時間は有限だと言われるが、それは人間が有限的存在だからだ。有限的存在である我々に付帯する時間は有限性をもつことになるからだ。

無限性は不可変だが、有限性は可変である。

つまり、時間と人間の関係性の中で、変えられるのは有限的存在である人間だ。だから、単位時間あたりのパフォーマンスを上げたい(タイムパフォーマンスを上げたい)のであれば、自分自身が変わるしかないのだ。しかし、現代人の多くはそれに気付かず時間を可変的なものだと思い込み、倍速視聴などを行う。それを処理するのは有限的な我々なのであり、脳が処理できる情報量も有限的である。つまり、単位時間あたりの情報量の密度を濃くしたとしても、それを処理する脳が有限的である限り、タイパは上がっているようで上がっていないのではないかと思うのだ。仮に上がっていたとしても、個々人の能力に依拠するため、かなりの個人差が出るだろう。

人間は時間に隷従してしまった。収奪の対象であった時間を追求するあまり、いつの間にか立場が逆転してしまったのである。

この立場を元に戻すにはどうすればいいのか。それには時間を飼い慣らすことが求められると思う。「飼い慣らす」とは、自身に付帯する時間を自らでコントロールするということだ。そのためには、日々の時間を慈しむことが大事だと思う。いまを大切にすることは、未来を大切にすることと同じだ。未来はいまの連続体だからである。未来を憂いても意味がない。いま、この時を生きるのだ。見ず知らずの奴からもらういいねや、罵詈雑言に一喜一憂するような時間は決して必要ない。自分にとって心地よいものは何か、何している時間だと幸福を感じられるのか。幸福とは状態ではない、感覚である。自分に付帯する時間を飼い慣らすことは、自分のことを飼い慣らすことと同じである。


今一度、自分に問うてみる。

目の前の時間を大切にできているだろうか。
目の前の人を大切にできているだろうか。
目の前の人との時間を大切にできているだろうか。

そして何より、自分のことを大切にできているだろうか。


これから、我々はどう生きるか。



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