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「ミツバチと私」/「正欲」 〜アイデンティティの揺さぶり〜



時代は明らかに変わりつつある。

戦後は「成長」が高次の目的に置かれていた。それから50年が経過し、2000年代にはインターネットが大衆化したことで、金銭や情報が飽和する時代に突入した。そんな流れの中で、人類は外延的拡大による成長ではなく、内なる自分との対話を積極的に行う時代に突入していった。

これを「本当の自分時代」と命名しよう。

多様性、アイデンティティ、やりたいこと etc…
我々若者は、色々な難題を投げかけられながら、日々考えさせられている。
リクルートの「お前はどうしたいの?」はその典型だろう。

もちろん、自分がしたいことをするのが一番いいのだろうが、それを10歳代という若いうちから考える環境に置かれているのが現代の大きな特徴だ。リクルートのそれは、創業者・江副浩正さんが存命しリクルート事件で逮捕される1988年頃の話だ。それまでただただ「成長」を目指す社会における学校で育ちそのまま就職し社会人になり、それから「自分がしたいこと」を探すという時代だっただろう。

それが今や、小学生の時から自分が本当にしたいことはなんなのか、AI時代に勝てる人間らしさとは何なのか、なんてことを意識させながら生きるのだから、息苦しいったらありゃしない。

そして、本当の自分は性別でも問われる時代だ。LGBTQという言葉がメジャーになりつつある現代、自分の身体的性別と精神的性別のギャップに悩む方も少なくない。身体的特徴は外部から唯一言葉を持たずとも対象に関して確認できることであるため、誰かによって決まられた社会的制約を受けやすい。銭湯における女湯・男湯なんてその典型だろう。トイレに関しては昨今、多目的トイレから「ユニバーサルデザイントイレ」と呼称が変わり、性別や障がいなど関係なく誰でも利用できるトイレが誕生し始めている。

つまり、社会はそれまでの成長から、「我々にとって生きやすい社会とは何か?」という問いに答えていく社会に変わりつつあるのだと感じるのだ。

その背景には、戦後から現代に至るまでの成長志向型社会において数々の社会問題が発生していたにも関わらず、無視する時代が長く続いていたことも深く影響しているだろう。地球温暖化や民族問題なんてまさにそうで、そのような現存する社会課題を解決する時代でもある。

そんな時代だからこそ、「ミツバチと私」と「正欲」という作品が生まれたのだと強く感じる。


◯ 「ミツバチと私」〜親と性自認〜

引用:公式HP

原題は『20.000 especies de abejas』で、20,000種のミツバチという意味。
あらすじは以下の通り。

夏のバカンスでフランスからスペインにやってきたある家族。
母アネの子どものココ(バスク地方では“坊や(坊主)”を意味する)は、男性的な名前“アイトール”と呼ばれることに抵抗感を示すなど、自身の性をめぐって周囲からの扱いに困惑し、悩み心を閉ざしていた。
叔母が営む養蜂場でミツバチの生態を知ったココは、ハチやバスク地方の豊かな自然に触れることで心をほどいていく。
ある日、自分の信仰を貫いた聖ルチアのことを知り、ココもそのように生きたいという思いが強くなっていくのだが……。

https://unpfilm.com/bees_andme/

主人公は、フランス領バスクに住む8歳の少年であるアイトール(愛称はココ)。身体的特徴は男の子なのだがなんだかしっくりこない。心を許している叔母ルルデスには「自分は女の子」と話すのだが、両親や祖母は「甘やかしすぎて育ててしまった」とつい口走ってしまう。

このやりとりの中で面白いところは、「甘やかして育ててしまった」という部分にあると思う。この発言からは、「甘やかして育ててしまったから女の子になりたいなんていう考えが生まれてしまったんだ。ミスってしまった。もっと厳しく、男の子であるように育てるべきだったんだ」という真意を読み取れる。つまり、子どもの性自認は「親による教育」によるところが大きいということなのだ。性というものは、母体から出てきた瞬間にわかる身体的特徴によって決めつけられ、それを自認するかは親の教育によって規定される、ということなのだろうか。

この構図は、性に限った話ではない。

自身のアイデンティティに関して「自分はこう思う」と主張するも、「いや、社会的には認められにくいからそれはやめなさい」という悶着が発生することが多々ある。これは性癖や趣味にも通ずることだろう。社会的なトレンドや「正解」とされるものに簡単にアクセスできるようになった社会だからこそ、「社会的異物」は簡単に見つけられるようになり、当事者たちは社会との折り合いをどう付けていくかで悩みながら生きていく。今回の場合は、それを8歳のうちから自覚したということだ。

そしてこの映画のいいところは、ヒーローがどこにも出現されず、ただの日常を切り取ったに過ぎない写し方をしているということ。だから、どこにでもいるんだということがわかる。その分、内容には起伏はほとんどないため、寝てしまっても仕方ない時間が大半だ。でも、日常ってそんなもんじゃない?という監督の考えを受け取ることができる。そして、舞台がスペインとフランスに跨るバスクという点も重要なのだろう。


映画をもっと詳しく知りたい方はこちら。

 


◯ 「正欲」〜私は、社会のバグなのか〜

引用:公式HP


この映画を観て共感、あるいは救われたと感じたら、おそらく映画中で表現された「社会のバグ」なのだと思う。ちなみに僕は共感てしまった。

ポスターに登場する稲垣吾郎は検事として、社会のバグを直していく役割(いわゆる普通)で、ガッキーと磯村勇斗はバグと見做される側。

バグ側の人たちは、誰からも理解されないまま生き続けなければいけないという思いをもったまま、毎日に希望を見出せないまま生きている。だけど、社会で生きている限りどうにかしなければならないと考えた2人は、バグだとバレないように擬態をすることに決める。

つまり、この映画は普通がほとんどの世の中で、バグ側の人間は如何に生き延びていくか、という問題提起をしている。だから、興行的に売れるわけがない。この映画が何十億円もヒットなんて社会だったら、マジでやばいと思った方がいい。そんな映画だ。

だけど、バグ的存在はマイノリティとして社会に絶対に存在する。じゃあ、どうやって生きていくことが求められるのか。それは、人とのつながりなのだ。どういう人と知り合って、深い仲になって、どんな話をして、どんなご飯を食べて、どんな時間を過ごせるか。それが、生きていく術なのだと次第に気づくようになる。

別に社会の普通と無理に繋がろうとしなくてもいい。擬態できていればそれでいい。バグ同志で繋がることで。。。


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