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小さな物事こそ、大切にしたいという話

私が今やっているアルバイトのうちのひとつが、飲食店での接客業務だ。
コロナ禍にもかかわらず安定してシフトに入ることができたし、地元の他の飲食店と比べると、破格の時給もいただけているしで、大変働きやすい環境だ。

その飲食店でアルバイトを始めてちょうど3年目なのだが、先日、初めて「お褒めの言葉」をいただいた。

常連さんからのお言葉だったのだが、①色々なところに目を配りながらテキパキと仕事をしている ②いつも温かいお茶をお願いするのだが、何も言わずとも持ってきてくれる といったことが書かれてあり、素直に嬉しかった。

本部から、お褒めの内容が書かれた賞状が送られてきたので、常連さんはわざわざ「お客さま相談窓口」などに電話して、このメッセージを伝えてくださったのだ。

私が勤務する店舗には、温かいお茶が欲しいという常連さんがたくさんいらっしゃるため、どなたが送ってくださったのかはわからない。
それでも、「自分の頑張りを見てくれている人がいる」というのはこんなにも嬉しいものなのかと感じる。



大学に入り、アルバイトをするようになって「お金の大切さ」や「仕事に責任をもって、些細に見えるようなことまできちんと行うべし」といった、当たり前の考え方を肌で実感するようになった。

前者について、お小遣いとして親からお金をもらうのと、自ら稼いで手に入れたお金では、その「重み」がまったく違う。
口座に入金されるなど、決して「現金」で給与が支給されるわけではないにもかかわらず、やはり自分で稼いだお金に関しては思い入れが違う。

一方、最近では「不労所得」「寝ていても稼げる仕組みづくり」など「楽してお金を稼ごう」という風潮も出てきている。

それ自体は否定すべきではないし、肉体的・精神的な労働以外に収入を得る手段として、体を思うように動かせない方・あるいは人と接することに苦手意識を持つ方など、これまでの賃労働の枠組みでは排除されてしまうような人々にとって、新たな選択肢となるはずである。

それでも、その「仕組み」づくりの土台には、自ら勉強したり、自分が蓄えた知識をブログ等でわかりやすく発信したりなど地道な努力が欠かせないはずだ。

「楽して稼ぐ」という面が強調されがちな不労所得だが、それを生み出すまでの努力を考えると、決して「怪しい」などと切り捨てるべきではないし、またそこで得られた収入というのは、賃労働と同じくらいの重みを持つはずだ。

(恥ずかしい話、そうした「努力」の存在を無視し、「楽して稼ぎたい!」と、半年ほど前に情報商材に手を出しかけてしまった。情報商材すべてが悪いとは思わないが、「マニュアルに沿って〇〇をやるだけ」といったものは疑ってかかった方が良い。他力本願でお金を稼ぐ仕組みづくりをしたとて、それは結局賃労働と変わらない。本当に「会社に縛られない」生き方をしたいのなら、”周りの意見を取り入れるのは大切だが、最後は自分の覚悟と努力が必要になってくるものだ”とかつての自分に言いたい。)


話は戻って、「些細なことでもきちんと行うべし」という学びについて。

仕事やアルバイトに限らず、忙しかったり慣れてきたりすると、どうしてもおざなりな部分が出てきてしまう。
しかし、「まぁ仕方ないか」でそれを片づけ続けていると、いつしかそれが習慣となり、適当な状態がデフォルトとなってしまうのではないか。

もちろん、「お客さまは神様だと思え」という時代遅れの価値観を奨励するつもりはないし、気分が乗らない日に無理して全力を出す必要もない。

ただ、「最低限これだけはやる」というラインを決めておくことは、非常に大切ではないだろうか。

「最低限」のハードルは、それほど高くなくてもよい。
むしろ、ハードルを低く設定し、それを確実に達成することで自己肯定感を上げることにつながるだろう。

アルバイトとして働く私は、「どんなに忙しくても、それを声や表情、仕草に出さない」ことを最低限の目標としている。
自分が同じ接客をされたとき、居心地の悪さを感じないかということは、常に意識していることである。


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