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テレビの「音声」がしんどい。

筆者は、テレビの「音声」にある種のしんどさを感じているのかもしれない。
ふと、こう思うようになった。

今回は、その背景について、自分なりに分析した事柄を記していこうと思う。


高校生になった2016年ごろから、筆者はほとんどテレビを見ていない(もっとも、2023年に入ってからイタリア語を勉強し始めたので、NHKの語学講座だけは、毎週欠かさず見ているが)。

筆者の出身高校はいわゆる進学校で、課題や予習、授業前の小テストなどがおおく課された。
これらに取り組む時間を捻出するため、テレビを見なくなったというのが、そもそものきっかけだろう。

もちろん、課題等をこなしながら、バラエティ番組やドラマを視聴することは、十分可能なはずだ(現に、高校2年生の妹はそれを実践している)。

だが筆者は朝型の人間であり、皆がドラマを楽しんでいる時間にはすでに寝ている(高校生の頃は、さすがに4時前に起きてはいなかった気がするが)。


こうして、テレビとはあまり縁のない高校生活を送った筆者は、現在もほとんどテレビを見なくなっている。

筆者がテレビに触れる機会といえば、自宅1階にある居間に降りていったとき(家族が見ているものがちらっと目に入る)、あるいは、公共施設に入ったとき(駅や病院の待合室など)くらいだ。

しかし、普段テレビを見ないからこそ、ふとした瞬間に出会うテレビ番組が、とても邪魔なもの・集中力を削ぐものに感じられる。

無音だと寂しいからなのか、駅や空港の待合室、スーパー銭湯のサウナなど、あらゆる場所でテレビの電源がついている。

そこで付いているのは、たいてい報道番組かバラエティ番組だ。

とくに前者のばあい、著名人の不祥事や事件・政界の不手際・物価高など、視聴者の不安や嫌悪感を煽るようなものばかりが報道されていて、正直疲れる。

とくに、新型コロナウイルスの感染拡大・流行は、テレビやSNSがもつ負の側面を一気に表面化させたできごととして記憶されるだろう。

リモコンや電源ボタンは普通、利用者の手の届かないところにあるため、勝手にチャンネルを変えることもできない。
その場から立ち去る以外に、この「しんどさ」を打ち消す方法は、ほとんどないだろう。

この、「マイナスなことばかりを発信するメディア」を批判し、そこから距離を取ろうというのは、デジタル・ミニマリズムを志向する書籍などでは定番の言説だ。

これには、筆者も首肯する。
マイナスな情報ほど拡散されやすく、人々の記憶にも残りやすいというのはおそらく、負の情報に敏感である個体の方が生き残りやすかった、という自然選択の結果であろう。



ここまでは、テレビ番組の内容に着目して、疲れる原因を簡単に述べてみた。
筆者は、さらに「音声」に着目して、自身がテレビに嫌悪感を抱く理由を考察してみる。


端的にいえば、「テレビの音声は、絶えず刺激が変化するため、「慣れ」によって思考から除外することが困難になる」ということだ。
以下、すこし考察を試みる。

ヒトは、環境への適応の一環として「慣れ」という反応を示す。
これは、心理学や生物学などで膨大な研究がなされており、ここで改めて詳しく述べるまでもないだろう(↓参考までに)。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasj/55/5/55_KJ00001457181/_pdf


ヒトは、継続する刺激を「慣れ」によって注意の対象から除外し、別の有意な刺激を受容するためのリソースを確保する。

しかし、テレビの音声は、これを注意の対象から外すための「慣れ」を与えてくれない。
むしろ、絶えず新しい刺激が提供されつづけ、常に意識がテレビの音声にもっていかれる。


たとえば、報道番組について考えてみる。

アナウンサーはたいてい2人以上で、かけあいをしたり、順番に原稿を読んだりする。
さらに、司会進行役のアナウンサーと、実際にニュースを読むナレーターが異なることも、しばしばある。

コメンテーターがいれば、そのぶんだけさまざまな人物の声が聞こえてくる。

このように、絶えず別の人物が話すことになるので、「話し手が移ったな」などと考える間もなく、意識は話し手の変化=刺激の変化に反応する。


バラエティ番組も同様の構図だろう。

ナレーション、BGM、スタジオにいる芸能人と司会者のやり取り、CMなど、音声の刺激が変化するタイミングは無数に存在する。

1人、ないしは1つの刺激を「慣れ」として意識から除外する前に、他の人物の声やBGMなどに切り替わり、また意識をもっていかれる。


これらは、視聴者にテンポ感の良さを感じさせ、また番組に惹きつけておくためのひとつの戦略でもあるのだろう。

しかし筆者には、これらが避け難い刺激として、じわじわとボディブローのように効いてくるのだ。

無視しようと意識すればするほど、かえって内容が気になってしまう。


なお、筆者はHSPというわけではないし、テレビの騒音がまったく気にならないときもある。

自分の体やメンタルの状態と、刺激がやけに気になってしまう状態との間に相関があるのかどうか、わからない。

相対的にみて、テレビの音声を騒音に感じる割合のほうが高い気はする。



筆者は、常に耳栓をもち歩くことで、こうした問題に対処している。

耳栓もいくつか試していて、現在は無印良品のものを使用している。
空港のアナウンスなど、必要な音声までシャットアウトしないように、ばあいによっては片耳だけの着用だが、それでもかなり違う。


ノイズだと思うものは人によって異なるし、全ての人に配慮した空間を作ることも至難の業だ。

だからこそ、ノイズを自分でコントロールできるように、耳栓をもち歩く。

環境を無理やり変えようとするのではなく、さまざまな手段をもちいてそこに適応していく。
しなやかに、強かに、自分にとってのノイズを除外していく。

そんなスタンスで、日々生活している。

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