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【小説】縁日

 そこで足を止めたのは その暖かそうな明かりに惹かれたからかもしれない。その夜はとても寒かったから。
 ――奈々に似てる。
 夜店の屋台には、ほかにいくつもの人形が並べられていたけれど、聡美の目は吸い寄せられるようにその人形の上で止まった。白熱電球の吊り下げられた縁台の上に並べられているのは、10センチに満たない布製の人形たちだった。
 その人形は、薄桃色のワンピースを着て、頭にも同じ色のベレーを被っている女の子。聡美の娘、奈々もそんな薄桃色の服が好きだった。電球の柔らかい明かりに照らされてどことなく悲しそうに見える表情も、離ればなれとなった娘の面差しによく似ている。腰をかがめた聡美が手に取ると、人形が温かく感じられるような寒い冬の縁日のことだった。
「なにしてんの」
 神社へと続く暗い参道の石畳を先に進んでいた雄太が戻ってきて、肩越しに聡美が手にしているものを覗き込んできた。吐く息が白い。
「どう、かわいい人形じゃない」
 手に取った人形を、眉より上にかざすようにして見せたけれど、雄太はふうんと興味なさげに鼻を鳴らしただけだった。分からないのも仕方がない、雄太は奈々を知らない。
「寒いし、早く行こうよ」
 せわしなく足を踏み鳴らして子供っぽく雄太が先をせかす。聡美がぐずぐずとしているのが気に入らないのか、声がとげとげしくなってきている。一旦雄太の機嫌が悪くなったらなだめるのは大変だ。でも、そのときの聡美はその場を立ち去りかねた。
 ――もう、会えない奈々。
「ねえ。この人形、買っていいかな」
 えっという表情で雄太の顔が一瞬固まったが、即座に吐き捨てるように言った。
「そんなものいらないよ。人形なんてなんの役にも立たない」
「でも、かわいいよ。大きいものじゃないから部屋にあっても邪魔にならないし。私、欲しい」
 立ったまま見下ろす姿勢の雄太の顔を、すくい上げるように上目遣いで見上げる。そうした仕草がもう若くない聡美に似合わないことは承知の上だけれど。
 暗い視線がしばらく交錯した後、雄太は踵を返して背を向けた。
「好きにすれば」
 いかにも興味がないといった雄太の様子に、聡美は人形を買ってもいいのだとほっとすると同時に、寂しく、物足りなく感じた。聡美が欲しいものは、雄太にも欲しいと思って欲しかった。聡美がうれしいと感じることは、雄太もうれしいと感じてほしかった。でも、雄太は背を向けて遠ざかりつつある。聡美を置いて。
 ――待って。
 手にした人形の代金を渡しながら、聡美の目は見失わないよう雄太を追っていた。
「……さいね」
 夜店の店主が話し変えてきたことも上の空だった。えっと向き直って聞き返す。縁台の向こうに座っていた店主は、小柄で表情の薄い男だった。目深に被ったグレーのハンチングの下から細い目がわずかに覗いている。
「奥さんの……子供と思って……大事にしてくださいね」
 小さくかすれて聞き取りにくい声だった。客への愛想はほとんど感じられないが、それが却って真実味を感じさせる口ぶりだ。聡美が頷いて見せると、かすかに口元がほころんだように見えた。
 ――もちろん大事にするわ。
 人形を胸に抱くようにして立ち上がると、頬に白く冷たいものを感じた。いつの間にか、夜店の明かりに照らしだされた参道を無数の雪片が舞っている。風花だ――。道理で寒いはずだ。聡美は体を縮こめて小走りに雄太を追った。

 わずかに月明かりが差し込むほかは真っ暗な部屋は静かで、穏やかな寝息が小さな空間を満たしているように感じられた。寝息を立てているのは、聡美のアパートに泊まっていった雄太だ。布団はふたりで横になるには少し狭い。
 人形は居間の小さなタンスの上に座らせてみた。六畳と四畳半の続き間に小さな台所がついただけの小さなアパートは、人形の位置からあらかた見渡せてしまう。だから、夕食の後、雄太に求められたときはいつもと違って恥ずかしかった。
 ――ナナが見てる。
 アパートへ戻り、聡美がタンスの上に人形のためのスペースを空ける様子を雄太は黙って見ていたが、「ナナ」と名付けて呼びかけると途端に不機嫌な声を上げた。
「やめなよ。人形に名前をつけるなんて」
「どうして」
「子供みたいだし……、なんだか気味が悪い」
「この子だけよ。この子だけ……」
 それ以上、雄太は人形について口にすることはなかったが、夕食をとっている間もずっと押し黙ったままだった。そんな雄太の態度に聡美は不安を覚えたけれど、食器を洗うため流しに立った自分の手を雄太に取られ、両手で抱きしめられて、ニットの下から胸を探られたときは、ほっとした。雄太と会っているとき聡美はいつも不安になる。
 ――これが最後ではないか。
 ――捨てられはしないか。
 雄太の腕に抱かれ、身体の奥に若い男を感じるとき、その身体が喜びに震えるのとは真逆に心は不安に慄いている。そんな身体と心が捻れた様子を人形のナナには見透かされてしまうようで、聡美は行為の最中、ナナから顔を背け通した。
 雄太が寝入って静かになったいまも、タンスの上にナナは座っていて聡美たちを見下ろしている。
 ――ごめんなさい。
 どうして謝るのか聡美にもよくわからない。ただ身体の奥で小さくくすぶっているものを言葉にして伝えるなら『ごめんなさい』がふさわしい気がしただけだ。
 聡美が雄太と出会ったのは、ふたりが働いていた深夜スーパーの倉庫だった。聡美はレジ打ち、雄太は配送のアルバイトだった。帰る方角が同じだったふたりは、やがて一緒に居酒屋で遅い夕食をとるようになり、時々雄太は聡美のアパートに泊まっていくようになった。ひと回りも年下の雄太とどうこうしようというつもりはなかったのに、まだ若い雄太にとっては違っていたらしい。今夜のように後ろから抱きすくめられ、激しく求められた。聡美は驚き、仕草としてはあらがってみせたものの、男に愛される予感に頭がくらくらする思いがしたことを、ついさっきのことのように思い出せる。
 ――他愛ない。
 あのとき雄太の前に身体を開いたわが身を振り返えると、いまでも恥ずかしくて暗がりの中ひとり赤面してしまう。
 それからの雄太は、度々聡美のアパートへ立ち寄るようになり、その度に聡美の身体を求めた。そして行為の後は必ず金を無心していった。その後、雄太はスーパーでのアルバイトは辞めてしまったが、聡美のアパートを訪ねることはやめなかった。有り体は聡美のヒモになり下がったということだ。
 聡美は、そんな雄太のことをよく知らない。どこに住んでいるのかすら知らされていない。おそらくは仕事をしていないのだろうけれど、普段何をしているのかも聞いていない。求められるままに抱かれ、請われるままに金を渡しているだけ。
 普段何をしているの――。
 どこに住んでいるの――。
 なぜ私のところへやってくるの――。
 聡美の質問は雄太を無口にし、好奇心は雄太を不機嫌にする。嫌われてまで雄太のことを詮索しようとは思わなかった。雄太の前に身体を開くたび微かな恥辱を、別れ際に金を渡すたび拭いようのない疑問をそれぞれ感じる。それでも……そんなことであっても聡美は、自分が雄太から必要とされていることに満足していた。
 ――彼は私を必要としてくれる。
 そう自覚するとき、聡美は雄太のことだけは失えないと自分に言い聞かせるのだった。

 三年前、聡美は夫と別れた。
 冷たい夫だった。朝早く家を出て、夜は日付が変わってからでないと帰ってこない生活が結婚した当初から続いた。理由は仕事。甘い新婚生活を夢想するほど幼くはなかったものの、まったく期待しないほど人生経験を積んでいたわけではなかったので我慢しきれず、帰宅が遅く寂しいと訴えると、夫は心底驚いた様子でこう言い、激怒した。
「ぼくが働いているのは、きみのためでもあるんだ。ぼくがどんな思いで毎日働いていると思ってるんだ」
 思えばその頃からふたりはすれ違っていたのだろう。
 そのときの聡美はうまく言葉にすることができなかったのだが、夫がふたりのために朝は早くから夜遅くまで働いているのは承知の上だった。そんなことは分かっているが、分かっていた上でなお寂しいことを伝えずにはいられなかったのだ。
 丹精込めた夕食が翌朝になっても手付かずで残っていたり、夏休みの旅行として計画したツアーにキャンセルを入れなければならなかったり、夫のバースデーケーキにひとりナイフを入れたり……。ひとつひとつは些細なことのはずだったけれど、積み重なった理屈では割り切れない思いが「帰宅が遅い」という愚痴にも似た言葉に込められていたことを分かってもらいたかったのだ。
 自己中心的な女と決めつけられたことは耐えることができた、でも思いを汲んでもらえなかったという恨み――そう、この夫に対する悲しくて報われない思いを、恨みというのだろう――は、そのとき聡美の心に深く根を下ろした。
 やがて、そんなふたりの間に子供ができた。夫は無邪気に喜んだけれど、聡美は素直に喜べなかった。
 ――どうしてできてしまったの。
 夫に対する気持ちが冷め切っていたタイミングでの妊娠だった。真剣に堕胎を考えたが、夫はともかく、喜ぶ双方の両親の手前、中絶は口にすることすらはばかられた。そして、生まれたのが奈々だった。
 生まれたばかりの子を可愛いと思う余裕もあらばこそ、聡美は病弱な奈々の世話に追われた。頻繁に発熱し、食の細い奈々は聡美の新たな悩みの種となった。寝つきの悪い奈々を寝かしつけるため、夜通しあやし続けたことも一度や二度ではない。しかし、母を求めて泣き、無心に乳を吸う奈々を抱くうちに、聡美は、夫とふたりの生活ではついに見つけることができなかった、『必要とされている自分』を発見した。奈々にとって聡美は必要欠くべからざる存在だったのだ。
 その事実に酔わないでいられる母親がいるだろうか。
 聡美は育児に没頭した。知育によいといわれる玩具を与えたり、音楽を聴かせるとよいと聞けばクラシックのCDを買ってみたり、育児本も読み漁った。はじめての寝返りに大騒ぎし、はいはいやあんよができたときには涙して喜んだ。奈々の成長とともに聡美も親として成長している実感があった。そして、奈々の育児に夢中であるうちは夫とのことは忘れていられた。奈々が三歳になる頃までは。
 奈々は発語が遅かった。三歳になってもはっきりと意味の通る言葉は少なかった。
「障害があるんじゃないだろうな」
 不安に感じていた聡美に対して、夫の言葉は余りに無神経だった。そんなはずはないと信じつつも、奈々に対してきちんと話すよう繰り返し言い聞かせるようになり、ときには厳しい言葉を使ってしまうこともあった。
 ――どうしてできないの。
 うまく言葉の出ない奈々の悲しげ目が、聡美には恨みがましい視線に感じられた。
 ――ママが、悪いとでも言うの?
 奈々の視線が夫のそれに重なるのは聡美の錯覚であるのだが、その幻をふり払うため娘に手を上げた。幼い娘の頬を打つ、尻を蹴る。一度が二度になり、際限なくなるまでさほど時間はかからなかった。
 奈々――。どうして話してくれないの。ママはこんなに頑張ってるのに。できるんでしょう、話しなさい。ママが叱られるのよ。障害のあるはずがない。話せるはずよ。話せるはず。話せ。話せ。話せ――。
 虐待は、奈々が春から通い始めた幼稚園から通報され、夫の知るところとなった。そして、離婚。聡美は奈々と引き離され、以後一度も会っていない。
「奈々はきみに会いたくないと言っている」
 それが本当にそうなのかは分からない。聡美は、ついに奈々の話す言葉を聞くことなく別れてしまったから。

 ナナがやってきて聡美の生活に張りが生まれた。朝、起きるとタンスの上のナナにおはようのあいさつ。午前中に家事を済ませ、昼食をとった後に出勤するときにナナを振り返って、いってきます。そして、夜9時過ぎに帰宅したときも彼女はタンスの上で聡美を待っていてくれる。ただいま、今日も疲れちゃった。あいさつとはこんなにも心を華やげるものだったのだ。
 雄太は毎日やってくるわけではない。多くて週に一度か二度。月に一度くらいのこともある。雄太がいないアパートにひとりでいると、人恋しくて寂しい。ヒトはだれかに関わる存在なので、独りのままではいられないのかもしれない。でも、ナナがやってきてからはそうしたこともあまり気にならなくなっていた。
 仕事のない日はナナのために小物を作るようになった。以前は用もないのにショッピングモールへ出かけたり、興味がないのに美術館をぶらついたりしていた。時間をもてあまして過ごすことほど虚しいことはない。人生の空費だと思う。最初に作った小物はランドセルだった。赤い端布と一日格闘して出来上がった不恰好なランドセルは、タンスの上、ナナの横に並べた。
 いま奈々は六歳。
 ランドセルを背負って小学校に通い始めたはずだった。ランドセルの次に赤い靴、麦わら帽子…。タンスの上にナナの持ち物が増えてゆく。

 いつも通る神社の縁日で人形の屋台を見つけたのは、ナナと出会って半年ほど経ってからだった。寒かったあの冬の日と同じように人形が縁台に並べられていた。あの時は暗くてよく見えなかった人形の表情がいまはよく分かる。人形たちの表情は驚くほど豊かだった。笑った顔、怒った顔、泣いた顔。女の子、おじさん、おばあさん。それぞれ全く違う表情をしていてひとつとして同じ物はなかった。
「奥さん。前に買ってくれたよね」
 縁台の前にしゃがみ込んで人形に見入っていると店主が話しかけてきた。店主はあの時と同じハンチングにポロシャツ姿で、目を糸のように細めてにこにこ笑っていた。
「大事にしてくれてるかい」
「……はい」
「そいつはよかった」
 気さくに話しかけてくれる店主は、以前とは別人のようだ。もっとも半年も経って聡美の記憶もあいまいなのだが。
「人形たちの表情はひとつひとつ違うんですね」
「うん。ひとつひとつ手作りだからな」
 へえと感心して縁台の人形たちを眺める。微妙に大きさや材質が違うのは規格品でないためだろう。これだけのものを製作するにはずいぶん手間がかかるはずだ。
 店主によると屋台は毎月縁日に出しているわけではなく、今度も半年ぶりだったという。各地の神社仏閣の縁日に屋台を出したり、人形の仕入れのために日本全国を旅して回るらしい。
「じゃあ、ここにもほとんど来れないですね」
「ああ、でもここはおれの故郷みたいなところだからさ、必ずまた来るよ。見かけたら覗いてみてくれよな」
 店主に必ずと約束して聡美は屋台を離れた。縁台の上に並べられた人形たちが黙ったまま聡美を見送ってくれた。
 神社からアパートへ戻ると階段の前で掃除をしている大家と出会った。数年前に連れ合いを亡くした世話好きな女性だ。以前、歳を聞いたら聡美の両親とちょうど同じだった。
「あら、聡美ちゃん」
 聡美のことを「ちゃん」付けで呼ぶので、母親にそう呼ばれているようでなんだかくすぐったい。実際の聡美の母親は娘のしつけや教育に厳しい人で、聡美のことを甘やかしてくれるようなことは一度としてなかった。
「こんにちは」
「こんにちは。休みの日は出かけるようになったのね。いいことよ。若い人は家にこもってないでどんどん外へ出かけなきゃ。最近なんだか表情も明るいし、デート……かな?」
 ほうきを動かす手を止めて、口が滑らかに動き出す。夫や娘のことは話していないので、大家は聡美が独身であること以外は知らないはずだ。詮索するつもりはないらしく、表情にもまったく屈託がない。
「あの……散歩に、神社の縁日まで」
「ああ、あそこのお宮は毎月の縁日が盛んだものね。なににしろ、お出かけするのはいいことよ。ずっと部屋にいたんじゃ、気持ちまでカビが生えちゃうもんねえ」
 このアパートに越してきて二年余り。当初はまだ離婚のことを引きずっていて部屋に引きこもりがちだったことを思い出す。夫のことを許せないという気持ちと、奈々に対する申し訳ないという思いが交互に聡美を苛み、そのことばかりを一日考えて過ごしていた。あの頃は、部屋の外のことには何ひとつ興味がわかなかったように思う。
 そうした聡美の印象が強く残っているのか、大家はしきりと聡美が元気になったと喜んでくれる。
 神社の縁日を見たこと。
 人形たちが可愛らしかったこと。
 職場でのうわさ話。
 大家はそのいちいちに頷いたり、大げさに相槌を打ったり話を聞いてくれる。足元の影が長くなってきた頃になって、夕食の準備があるからと話を途中で切り上げ、二階の部屋へ戻った。ここに住んで二年と少し。この世界のどこにもいる場所がないと、絶望していた聡美が見つけたささやかな居場所は、人形のすむ小さな家だった。

 三週間ぶりに雄太がアパートを訪れた。迎え入れようとドアを開けた聡美の手が途中で止まった。
 ――いつもの雄太じゃない。
 黙って部屋の前に立っていることやむっつりと無表情でいること、背を少し曲げてズボンのポケットに手を突っ込んでいることもいつもの通りだ。
 でも、違う。気を取り直して雄太をアパートに招き入れ、聡美が手渡した冷たい麦茶を美味しそうに飲み干す様子を見ていてもそう思う。
「そろそろ処分しなよ。人形。持ち物が増えていい加減気持ち悪いよ」
 麦茶を飲み干したグラスを弄びながらそういう雄太を見て気がついた。ナナのことをよく思っていないのは以前と変わらない。変わったのは聡美を見る雄太の目だ。それはいつもナナを見るのと同じ目だった。
 すうと頭から血の気が引いていくように感じた。雄太は情熱的な男ではない。むしろ若いにも関わらず無気力な男と見られがちなタイプだ。それでも雄太が聡美を見る目には、熱があった。男が女に向って放つ熱――情欲、感傷、憧憬、焦燥……。すべてをひっくるめて愛情といえなくもないそれらの感情が、雄太の目からなくなっている。
「少しでいいんだ。一万。都合つかないかな」
 雄太は、夕食もそこそこに金の無心を切り出した。アパートにやってきて聡美の身体を求めなかったことのない雄太がである。
「八千でもいいんだ」
 言いよどむ聡美に対して、雄太は媚びるように微笑んでみせる。
 ――そんな顔をしないで。
 男が自分に向ける作り物の笑顔。聡美が雄太に求めていたものは、こんなものではなかった。こんな汚らしいものではなかった。
 あなたに渡す金など持っていないと言えたらどうだろう。しかし、現実の聡美はバッグから財布を取り出すと一万円札を抜き取り、雄太の手に握らせた。
「ありがとう」
 瞳の奥に喜色が浮かぶ。情けない――。
「ねえ」
 聡美が声をかけると、すぐにでもアパートから立ち去りたそうな雄太の声が尖った。
「なに」
「そのお金、なにに使うの」
 いままで散々金を渡してきたが、聡美が雄太に金の使い道など聞いたことなどなかった。その金がどうなろうと、与えることが聡美の喜びでもあったからだ。でも、今日は違う、いまは違う。
「なんだっていいだろ」
 怒気をはらんだ声を置いて。雄太が乱暴に立ち上がった。
 ――誤魔化された。
 素っ気ない男だったが、雄太は率直で嘘のない人だった。これまでは。
 ――女だ。
 出会った時からずっと恐れていたことだった。まだ若い雄太がひとまわりも年上の聡美より、もっと若い女に惹かれない理由はない。来るべき時が来たと聡美は信じた。
「雄太」
 たった今までそんなつもりはなかったのに、すがりつくようにして雄太の手を取った。
「うぜえな。触るなよ」
 手を振り払われ突き飛ばされて、尻もちをついた。強く座卓に背中を打ちつけ息が詰まり、あまりの痛みに体を震わせて涙ぐむ。涙を拭って顔を上げるとすでに雄太は部屋からいなくなっていた。金をせびっていったヒモからつれなくされ、泣いている女がひとり部屋に残された。
 そんな光景を人形が見ていた。ずっと。
 ナナは、タンスの上からいつものようにアパートの部屋を見渡していた。悲しそうでいて微かに笑っているような表情のまま。
「なに見てるの」
 聡美は、小さなナナの頭をわしづかみに摑まえると力一杯畳の床に叩きつけた。綿と端切れが詰められているナナの体は、ぽすっと気の抜けた音を立てて畳の上を転がっていく。
 人形がころころ、悲しげな微笑がころころころ。
「馬鹿にするな」
 転がるナナを追ってめちゃくちゃに踏みつける。一回、二回、三回、四回……、柔らかいナナの頭、頼りないナナの体、ところ構わず踏みつける、蹴飛ばす、投げつける。
 ――奈々。
 何度も何度も。何を踏みにじっているのか、いつから蹴りつけているのか、どうして投げつけなければならないのか、分からなくなるくらい。気づけば床に座り込んで聡美は泣いていた。ナナを胸に抱いて泣いていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
 その夜、聡美はナナと一緒に眠った。
 あくる朝、部屋に日が差し込む頃にはいつものタンス上にナナは座っていたけれど、その頬は聡美の涙に濡れていた。

「聡美ちゃん、眠れてるのかい」
 大家から話しかけられていると気づくのにしばらくかかった。我にかえると、聡美はアパートの階段を降りたことを思い出した。
「う、うん。眠れてるよ」
 大丈夫と返事したものの、大家が怪訝な表情でいるので聡美のことを不審に思っているのは明らかだ。足元は古びたサンダルで、顔は化粧っ気のないすっぴん、髪は櫛を入れていないのでボサボサだった。不用意に部屋から出るのではなかった。
「そう……、なんだか疲れてるようだから。何かあったのかい」
「ううん、なにも。ちょっと外の空気を吸いたくって」
 じゃあと話を切り上げて、とんとんとんと鉄製の階段を駆け上る。大家が背中を見送る視線を感じながら。
 外の空気が吸いたかったというのは本当だ。部屋にいると気が滅入って仕方ない。昨日も雄太が訪ねてきた。臆面もなく金の無心だった。そして聡美も言いなりに金を渡してしまった。
 ――どうして、ここへやってくるの。
 玄関のドアノブを回して部屋に入る。カーテンを閉め切っている部屋は昼間でも薄暗い。
 この部屋に雄太がやってくるのは、聡美が彼の金ヅルだからだ。ろくに口をきかなくなっても金の無心のためだけにやってくるのだから、そうとしか考えられない。分かっていたが、そうは考えたくないとも思っていた。
 ――あなたが来なければ、こんな思いをしなくてすむのに。
 部屋にいると聡美は自分に問いかけてしまう。どうして雄太は変わってしまったのだろうか、自分のなにが気に入らないのだろうか、以前のふたりに戻れるないだろうか……。そして、いつも答えを見つける。雄太の心変わりの理由はわかりようがない、それは聡美に原因があるわけではない、だから、聡美がなにをどう頑張ろうと以前のふたりに戻ることはない、雄太の心は聡美から離れたのだと。
 聡美はそのことを受け入れられずにいた。
 玄関から部屋をのぞくと、斜めに日が差し込む居間の座卓の脇にぽつんと人形が倒れているのが見える。薄桃色の服を着た人形はナナだ。ナナには頭といわず体といわず、何本もの、いや何十本もの縫い針や待ち針が突き立てられている。目鼻も口も手足も長短様々な針に貫かれていた。
「許せない」
 だが、そうしたのは聡美だ。
 雄太がいなくなると決まってナナを投げつけ、踏みつけるようになった。そうでないと聡美は自分の中のどす黒いものに飲み込まれてしまいそうになるから。それでもだんだんと気が済まなくなり、針を刺すようになった。
 最初は大変な罪悪感があり、何度もためらったが、縫い針をナナの目に突き立てた時のえもいわれぬ解放感に聡美は酔った。
 ブツリ。
 布製の肌を針で貫く感覚は甘美ですらあった。
 ブツリ。ブツリ。ブツリ。
 時が経つのも忘れて針を刺す、刺す、刺す。ナナが針山のようになってしまうまでさほど時間はかからなかった。

 最後に雄太がアパートに現れたのは、まだ残暑の厳しい八月の終わりのことだった。縁日のある神社の森からツクツクボウシの鳴く声が部屋にまで届いていた。頬を伝う汗を拭おうともせず、雄太は金の無心を切り出した。
「もう、やめたい」
 聡美ははじめて、雄太と知り合ってから初めて彼の要求を拒絶した。その時の雄太の目は、はじめて見るものを不思議そうに眺める子供のもののようだった。
「なんで」
 しばらく聡美を凝視した後、心底理解できないという様子で雄太が訊いた。
「いやなの」
「なにが」
「いまみたいな雄太に会うのが」
 聡美が見つめ返した雄太の瞳はぽかりと空洞が穿たれ真っ黒に見えた。
「わたしが好きになった雄太はどこに行ったの」
 この言葉もその真っ黒な洞穴に吸い込まれていくだけと分かっていたけれど聡美は口にせざるを得なかった。
 ――そうでないと終わらない。
「気持ち悪いから、そんなこというなよ。おれはおれ。変わってねえよ」
 嫌悪の表情。
 そのことも分かっていた。いままで確認することが怖くてできなかっただけだ。それを確認するときは、ふたりの関係が終わるときだから。
「いいから、いつものくれよ」
 最近は何も言われずとも一万円を手渡していた。都合のいい女。なんでも求めるもの――時間、金、身体――を言いなりに差し出す女。でも、そう思わせてしまったのは誰でもない、聡美なのだ。誰を責めることができるだろう。
「いや。出ていって」
 その抵抗は遅すぎた。
 聡美は胸を押して雄太を部屋から出そうとしたが、若い男の力にかなうはずもなかった。手を振り払われ、逆に胸を押されてふらついたところを床に蹴り倒された。
 聡美がいつもナナにそうしているように。
 夕暮れに赤く染まる家々が見える戸口からぬっと雄太が部屋に上がり込んできた。逆光に黒く塗りつぶされた彼の表情は読み取れなかった。
 いきなり聡美は頬を殴りつけられた。いままで雄太に手を上げられたことはない。拳を振り上げるその姿が信じられない。口の中に赤錆びた鉄の味が広がってきて、はじめて雄太に殴られたことを実感した。
「くそ」
 雄太の悪態が何を意味するのかわからなかったが、その怒りが聡美に向けられていることは容易に分かった。
 ごっ、ごっ、ごっ。
 暗い部屋に雄太が聡美を殴りつける鈍い音が響く。聡美は頭を抱えて避けるのだが、何度も殴りつけられるうちに自分が何をどうしているのか見当識を失ってしまった。手足を動かして逃げようとするのだが、暗い部屋のどこをどう這っているのかすら判然としない。
 くそ。くそ。くそ。
 いつまでもそんな声が聞こえるが、それが雄太の悪態なのか、聡美の呟きなのか、混乱してしまってわらかない。
 頭に鈍痛が走るのはどこかにぶつけたのか頭皮が裂けたためだろう。それとも雄太に踏みつけられたのだろうか。生暖かい液体が伝って右目の視界が真っ赤に染まってゆく。夕日よりもっともっと赤く。それが真っ黒になってゆくときになって聡美はようやく気づいた。

 ――わたし。この男の人形だったんだ。

 あくる朝早くアパートの階段を男が降りてくる気配に大家は、おやと思った。新聞配達には遅い時間だし、宅配が来るには早過ぎる時間だ。
 見ると、ときどき聡美を訪ねてくる若い男ではない、いままで見たことのない男だ。一階にある自室の窓から、おはようございますと声をかけると驚いた風もなくハンチングのつばに手を添えて軽くお辞儀をする。背中を丸めて歩く姿が大人しそうにみえる小男だ。ただ左の脇に黒いバッグを抱えているのが目に付くくらい。
 アパートの二階は聡美の部屋以外埋まっておらず、男が部屋を訪ねたのならそれはきっと聡美の部屋に違いない。大家がサンダルをつっかけて階段を上ってみると、聡美の部屋のドアが薄く開いたままになっていた。
 普段はドアが開いているからといって部屋を覗いたりしないが、正体の知れない不安に突き動かされて、大家は聡美の部屋を覗き込んだ。カーテンを閉め切った部屋は暗く、人の気配はなかった。彼女は聡美の名を呼びながら誘われるように部屋に入っていったが、聡美の姿はどこにもなかった。居間にも台所にも脱衣場にも。ただ異様だったのは、浴室の床が尋常でない量の血で濡れ、ステンレスの浴槽に張られた水がぬらぬらと赤く光っていることだった。
 それからもうひとつ。タンスの上から小さな女の子の人形がなくなっていたのだが、血相を変えて部屋を飛び出していった大家には、気付きようのないことだっただろう。

 一年を締めくくる十二月の縁日には今年も大勢の人が押し寄せている。神社の参道は左右に出店の屋台が連なっていて、日が落ちるとその色とりどりの照明が、夜の闇から御影石の参道や行き交う参拝客を浮かび上がらせる様子が幻想的で美しい。
 いましも一組の男女がある屋台の前で足を止めるところだ。
 その縁台の上の人形たちは、古めかしい白熱電球の柔らかい明かりの中に身を寄せ合うようにして並べられていた。電球の光が布製の人形たちを陰影濃く照らし出している。
 ランドセルを背負った男の子は笑っている。泣き顔の女の子はセーラー服姿。ほうきを持って怒っているおばさん。優しそうなおじいさんは子犬を連れている。
 女がひとつの人形を手に取った。
 薄桃色のワンピースを着たその人形は、さらに小さな人形を手にもっていて、顔の右半分は血ような赤に塗られている。

 ――どう、なんだか可愛くない?
 ――やめとけよ。そんな気味の悪い人形。

(了)

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