『マチネの終わりに』を読んで・・・ゲスを極めたあの人が卒論は出さなくてよかったんだと思う理由。
“反省はするけど後悔はしない”・・・誰が最初に言いだしたのかは知らないが、とても便利でありがたいお言葉だ。初めて聞いたのは中学生の頃だった気がする。いや、もっと前だったか。30年以上生きた今、確信を持って言える。このことばは理想論だ。つまり、現実にはこんなことはできないのだ。できないからこそ、人はそうであればいいな、そうありたいなと願う。同じようなことばに“健全な精神は健全なる肉体に宿る”というやつがある。
実際のところ、生きていれば後悔ばっかりだ。“あのときなんで彼女にあんな言い方しちゃったんだろう” “あのブログ、公開したのはさすがにまずかったよなぁ” “あそこで手抜かないでもう一周企画考えておけばよかったなぁ” “なんであのシャツ買っちゃったんだろう、限定とか関係ないだろ”・・・もちろん、即座に前向きになって反省できるときだってある。あるんだけど。それでも、ぼくたちは過去を引きずりながらでないと生きていけない。出来事が記憶に変わっても。記憶が思い出に変わっても、ぼくたちはクヨクヨしながら生きていく。元カノと撮った写真のはいったスマホは機種変してもずっととっておくし、負けたプレゼンの企画書のフォルダはPCのなかで重さをましていく。“小さなことにクヨクヨしないと大きな仕事はできない”って幻冬社の見城社長も言ってたしね。
平野啓一郎の新作『マチネの終わりに』は、恋愛小説の形式をとった『正しい後悔の仕方』の教科書だ。38歳の天才ギタリスト蒔野と、40歳の通信社記者洋子という熟年の二人が出会った瞬間からお互いに強く惹かれあいながらも、洋子はすでに婚約していたり、蒔野は演奏者としてのスランプに陥ったりしていて、二人の関係はいつしか途絶えてしまう・・・恋愛って難しい。人生ってうまくいかない。粗筋だけまとめると、そんなありきたりな話に聞こえてしまう。だが、平野はこのありきたりな出来事から、人生の真実を鮮やかに掬い出す。それは作中の蒔野のセリフで端的に表現されている。
『人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える』
過去が未来を変えていくのは自明だ。しかし、未来が過去を変えていくとはどういうことか。
例えば、漫画でいうならば『グラップラー刃牙』で、愚地克巳が闘いに敗れ片腕を失ったことを、前向きに捉え直したことで“片腕というオリジナル”の獲得に至ったように。
例えば、映画でいうならば『ハウルの動く城』でソフィーが老婆の姿になったことが、ハウルと本当の絆を結ぶきっかけになったように。
例えば、芸能界でいうならば、北野たけしが事故でそのときのすべてをリセットしたことが、世界的評価を得る映画監督TAKESHI KITANOの誕生につながったように。
そう、後悔せざるを得ない過去の出来事に対して、その先の未来が改めて意味をあたえてくれることが人生にはいくらでもある。
人はいつだって選択を迫られて生きている。何かをすることは何かをしないことだし、誰かと結婚するということは他の誰かとは結婚しないということだし、卒論を出さないということはそういうことだ。その時点で選んだ、あるいは選ばざるを得なかった行為によって未来は刻々と変化していく。同じように、変化していく未来は常に過去の意味を更新し続ける。人生で“死にたい”とつぶやいたことがない人は少ないような時代だけど、その死にたいほどしんどい過去が鮮やかに翻る奇跡が時として人生にはある。『マチネの終わりに』がそうであるように、それはそんなに派手な物語にはならないかもしれない。それでも、ぼくやあなたが生きていく理由としては十分だろう。
『自由意志というのは未来に対してなくてはならない希望だ。自分には何かができるはずだと、人間は信じる必要がある。だが、運命論は慰めとして機能することがある』
・ ・・ これもまた作中のことばだ。決して悲観的な意味で語られているのではない。自分の意志で決められなかったこと、運命ということばでかたづけて後悔し続けるしかなかったあんなことやこんなことさえも、その後の自分の意志や行動がその意味を変えていくことがあるのだ。だからぼくたちは後悔という感情を恥じる必要はない。隠したり照れたり蔑ろにしないでいい。むしろ、その後悔を大切なものとして傍において生きていけばいいのだ。
もちろん、この小説の美点は単なる主題によるものだけではない。熟年どうしの恋愛というあまりにもありきたりなモチーフから、未来によって過去は塗り変えられていくという普遍的な人生の真実を鮮やかに描き出し、エンターティメント作品として成立させているのは、作家平野啓一郎の人間の想像力や知性に対する信頼と、優れた文体の力だ。この物語を通じて平野は、何度忘れようと思ってもどうしても忘れられない辛いこと、しんどいことがある人、すなわちぼくやあなたをはじめとするすべての人々に対して『お前なら大丈夫だよな?』と問いかけてくる。だからこそ、この小説の文体は彼の作品のなかでは圧倒的に易しい。誰にでも届くように、優しい。冷静に人生の不条理さを伝えつつ同じ口調で人間への信頼を語る。
『運命とは、幸福であろうと、不幸であろうと、なぜか?と問われるべき何かである』
『孤独とはこの世界に対する影響力の欠如を認識することだ』
『偶然を、まるで必然であるかのように繋ぎ止めておくために、人間には、愛という手段が与えられているのではないか』
平野啓一郎はこの作品で、優れた作家が多くそうであるように、僕ら悩める同時代人の頼れる先輩になったのかもしれない。そのあまりにも文系青年めいた見た目に反して、許されるならば過剰な親しみをこめて平野パイセンと呼びたい。
『マチネの終わりに』が、人生に後悔している誰か、すなわちあなたやあなたの大切な人、あるいはゲスの極みのあの人や、彼の愛した人に届くことを願う。その後悔は大事にしたほうがいい。いつか美しい意味を持つときがきっとくるから。クヨクヨしながら、明日また生きていこうぜ。すれ違いと後悔の連続だったマチネの終わりに洋子は言ったんだ。『だから今よ、間違ってなかったって言えるのは』って。
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