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啄木の片想い
石川啄木は
ふる里の岩手・渋民で日本一の代用教員となる
と教育に情熱を燃やしていた
だが、校長排斥ストライキの先頭に立って
代用教員をたった一年で首になる
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
![](https://assets.st-note.com/img/1708319368378-35gQA1JH85.jpg?width=800)
1907(明治40)年
啄木21歳の春5月、函館にわたった
詩集『あこがれ』で名が出始めた啄木を
あたたかく迎えいれた
文学同人・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)のつてで
彌生尋常小学校の代用教員となった
わずか3ヶ月の代用教員の間に啄木は
教員仲間の橘智恵子に思いを寄せている
日記『函館の夏』で
啄木は女性教員の幾人を
「豚の如く肥り熊の如き目」と
容赦なく切りすてた
一方、女学校出たての智恵子を
「真直ぐに立てる鹿の子百合なるべし」
と呼んでいる
![](https://assets.st-note.com/img/1708473389924-rsEmTD79tm.jpg?width=800)
さらに、こうもしるしている
「智恵子さん なんといい名前だろう。
あのしとやかな、そして軽やかな、
いかにも若い女らしい歩きぶり。 さわやかな声」
―ドナルド・キーン『石川啄木』
だが、函館の大火で
勤め先の「学校も新聞社も皆焼けぬ…」
啄木は職をもとめ札幌行きの列車に乗った
啄木は、智恵子への思い歌(相聞歌)を
22首も残している
君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ
『一握の砂』
啄木が智恵子とふたりきりで
話をしたのは二度きりであった
彼が札幌へ行こうと校長に退職願を出すときに
たまたまその場に札幌出身の彼女もいて
かの地のことを聞いたらしい
さらに函館をはなれる前日、
彼女を下宿にたずね
詩集『あこがれ』を記念に手渡したとき
![](https://assets.st-note.com/img/1708472343366-1lM9RzNIzW.jpg?width=800)
「しらなみの寄せて騒げる 函館の大森浜に 思ひしことども 」
『一握の砂』
また、ふたりが大森浜のなぎさを
散歩したという話がある
さすれば
そのとき啄木は彼女への熱き思いを語らず
のちに悔いている
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
『一握の砂』
のちのち、智恵子は
「青年時代から変わった方でしたが、
こんな有名な詩人だとは存じませんでした」
と語っている
![](https://assets.st-note.com/img/1708319648059-urLTa6MDmg.jpg?width=800)
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