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啄木の片想い

石川啄木は
ふる里の岩手・渋民で日本一の代用教員となる
と教育に情熱を燃やしていた
だが、校長排斥ストライキの先頭に立って
代用教員をたった一年で首になる

       石をもて追はるるごとく
    ふるさとを出でしかなしみ
       消ゆる時なし

啄木の座像    啄木小公園  函館・大森浜                2020

1907(明治40)年
啄木21歳の春5月、函館にわたった

詩集『あこがれ』で名が出始めた啄木を
あたたかく迎えいれた
文学同人・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)のつてで
彌生尋常小学校の代用教員となった
 
  わずか3ヶ月の代用教員の間に啄木は
教員仲間の橘智恵子に思いを寄せている

  日記『函館の夏』で
啄木は女性教員の幾人を
 「豚の如く肥り熊の如き目」と
容赦なく切りすてた
一方、女学校出たての智恵子を
 「真直ぐに立てる鹿の子百合なるべし」
と呼んでいる

女性教員 後列右 橘智恵子     Wikipediaより

 

さらに、こうもしるしている
 「智恵子さん なんといい名前だろう。
  あのしとやかな、そして軽やかな、
  いかにも若い女らしい歩きぶり。 さわやかな声」
                   ―ドナルド・キーン『石川啄木』

 だが、函館の大火で
勤め先の「学校も新聞社も皆焼けぬ…」
啄木は職をもとめ札幌行きの列車に乗った

啄木は、智恵子への思い歌(相聞歌)を
22首も残している

   君に似し姿を街に見る時の 
   こころ躍りを 
   あはれと思へ                         
                                     『一握の砂』 

 啄木が智恵子とふたりきりで
話をしたのは二度きりであった

 彼が札幌へ行こうと校長に退職願を出すときに
たまたまその場に札幌出身の彼女もいて
かの地のことを聞いたらしい
 
  さらに函館をはなれる前日、
彼女を下宿にたずね
詩集『あこがれ』を記念に手渡したとき


大森浜                              2018

「しらなみの寄せて騒げる  函館の大森浜に 思ひしことども 」
                           
『一握の砂』

 
 また、ふたりが大森浜のなぎさを
散歩したという話がある
  さすれば
そのとき啄木は彼女への熱き思いを語らず
のちに悔いている

   かの時に言ひそびれたる 
   大切の言葉は今も
   胸にのこれど
            『一握の砂』

のちのち、智恵子は
「青年時代から変わった方でしたが、
 こんな有名な詩人だとは存じませんでした」
と語っている


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