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【勇気とデザイン思考】禍中で輝く若さと気高さ

6月2日長男がミドルスクールを卒業!長女もハイスクールのジュニアを終了、この夏からいよいよ最終学年がスタートします。二人ともこの2年半ほど続いた異常な生活環境など苦にも言い訳にもせず、立派に卒業、終了。だから卒業式では涙を堪えるのに苦労した。今の世界がこうなった責任は我々オトナにある。だから何の責任もない子供達に対しては申し訳ない気持ちで一杯だった。けれどそんな親の感じる不憫など全く意に介さず、ひたすら逞しく健気に生きる子供たちの姿には打ちのめされる思いがしました。そして今、もはや単なる家族というより共にサバイバルしてきた同志として、過ごした日々を思い出します。今回はこの2年半の長男の成長を通じて感じたことをシェアしたいと思います。

■逆境が鍛錬する心と感性

授業が全てオンラインになって、子供たちは朝から午後までパソコンと向き合うようになった。画面上に現れる教師や友人たち。広いダイニングテーブルにクロームブックを置いてポツンと座る後ろ姿を毎朝目にする度に胸が張り裂けそうになったのを憶えている。リアルな授業なら子供たちは前後左右の悪友たちと小突き合ったり喋り合ったり部屋のアチコチからクスクスと笑い声が絶えないものだけど、リモート授業は異様にしんと静まり返った静寂。なんとも無機質で味気ない。だから教師たちもあの手この手で子供達の注意を惹き付け、興味を焚き付けながら授業の質を上げようと工夫した。

音楽の授業ではジャズをBGMで流しながら米国の音楽の歴史と共に、教師(DJでもあるMr. Anzaldo)が好きなミュージシャン(Miles Davis!渋い)のディスコグラフィを紹介していた。美術の授業では手元カメラを駆使し、教師がリアルタイムに描いていく静物デッサンを画面で共有しながら各自それに倣ってデッサンしていた。手元の画面共有だから教師の描画も隅々までリアル授業より見易く模倣し易い。お陰でこの時期に長男のアートに対する興味は飛躍的に上がり、彼独特のDoodle描画は今や彼の趣味の一つになった。Video Productionの授業(担任は学校でダントツにCreativeなMr. Fanderl!)はグループごとに監督、脚本、振付、編集など担当を決めて学期末までに一本のミュージックビデオを完成させる。長男は監督に編集、一部の振付も兼務!。完成した作品を見せて貰うとコレがなかなかの出来映え!

ダイニングでオンライン授業を受ける長男。アートの授業では画面共有でデッサンを練習!

教師たちのそんな努力の甲斐もあって、生徒同士あるいは生徒と教師の間には平時には生まれないであろう特殊な心の繋がりや強い相互の信頼とリスペクトが確立されていったように見える。これは禍中の副産物というよりも、どんな逆境でも跳ね除けていく人間の崇高さがなせる業と感じます。

■生存能力としての思春期

私が親としてこの2年半で最も懸念したこと。それはロックダウンだのオンラインだのとコミュニケーションが分断される環境下、濃密で重要な体験を日々経験し一生記憶に留める「思春期(puberty)」という、人生で最も大切な時期をまともに過ごすことができるのか?ということだった。本来なら大切な仲間たちと一生モノの友情を育み、そしてそんな中から瑞々しい恋愛感情も自然と芽生えていく。そんな濃密で、淡く切ない思春期ならではの経験が、怪しい疫病騒ぎでメチャクチャに破壊されてしまうのではないかと心配していた。しかし人間そんなにヤワでは無かった(笑)。

この2年半の間に長男は所属するバスケチーム「Topflight Elite」で活躍、地区優勝を果たしたり、自分がリーダーをしている仲間グループ(彼を中心にいつの間にか集まった「Freaks」というマイノリティのグループ)の人数を30人近くまで増やしたり、おまけに最近知ったことだけど、何人かの女の子と付き合ったり別れたりもキッチリ経験していた(個人情報ですw… だけどスゴい!)から、いや~タフです。養老孟子さんが言うように戦時下を生きる人には戦時下が“普通の日常”となる。特に子供の順応性は親が考えるよりも遥かに高い。パンデミックだろうが戦時下だろうが自分のやりたいこと、人間として経験すべきことは誰が何と言おうと、どんな障害さえ乗り越えながら全部一通り経験していく。特に思春期の若者の強靭な生命力。生存能力を一気に高めていくのが思春期という時期でもあるのでしょう。

卒業式を仲間と楽しむ - ダンス練習風景 - バスケTopflightチームの仲間と - 個性的なDoodle

■デザイン思考は「生きる勇気」

卒業式では2名の卒業生が代表してスピーチを行った。一人は我々(生徒と教師)がいかにして”山”を制したかというスピーチ。山の高さを測るには3つの方法がある。一つは山の高さまで飛んで測る。2つ目は山を掘り進んで測る。3つ目は山頂まで自ら登って測る。そして我々は3つ目を選んだと。どんな苛酷な道中も友人や教師と団結し、互いに知恵を出しどんな苦境も耐え抜き、上り切ることができた。が、これは終わりではなく、越えるべき山との対峙は一生続くという話。もう一人の話はこの2年半をローラーコースターに例えた。毎日が予測不能のハラハラドキドキの連続!苦渋と停滞の時期(ボトム)もあれば、そこから一気に登って頂点(ピーク)から見えた明るい眺望!、と安心したのも束の間、また一気に奈落へと落とされるスリル。そして終わってみればアッと言う間だったと。平常時にはなかなか聴けないほど素直でリアルな情感が籠る話に心を動かされます。

そして教師のスピーチはGrit(勇気)を軸に話された。そもそもZoomで授業をしなくてはならないということ自体がUnnatural(不自然)でChallenging(苛酷)であったと(正直本当にそうだったろうと思うし、これを素直に言えることが素晴らしい)。例えばマスク着用義務の渦中での音楽の授業では、オーケストラメンバーが特殊なマスクを自ら開発して演奏が出来るよう工夫したなど。次から次に課せられる難題に屈することなく知恵と勇気でなんとか乗り切ったという、時にユーモアを交えながらも、心の底を吐露するようなスピーチだった。そして生徒、教師のスピーチに通ずるのは未来に対する強いコミットメント。この禍中での学校生活を山やローラーコースターに例えるアナロガスな発想、逆境を克服する知恵と勇気、そして未来志向のコミット。彼らのスピーチにはまさしく生存本能としてのデザイン思考が溢れていた。その意味で、デザイン思考とは“生きる勇気”でもあるのだろう。 

■戦士の誓いの場と化した卒業式

経験上、卒業式や記念式典は往々にしてセレモニーの色合いが強い。生徒は努力と達成の事例を少しく紹介しながら仲間を労い教師へ感謝を表し、教師陣はそれを喜んで受け入れ、感謝と感動を共にする儀式。しかし、今年の卒業式は違った。単なる儀式やセレモニーなどではない、戦火を共に戦い抜いた同士の集いであり誓いの場だった。人間は愚かであり崇高である。人間である以上、今後も多くの試練が待ち受けている。けれど、人間である以上、それらを跳ね除け、自らを成長させることはどんな時でも可能なのだと。そんなことを覚った卒業式でもあった。卒業おめでとう!龍!


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