「効率」
最近はコスパだの、タイパだのといった言葉をよく耳にする。一昔前は費用対効果だの何だのという言葉をよく耳にした。
俗に言う「効率」ってやつだ。
ざっくり言うと、有限である金や時間、人やモノを無駄がないように使いましょうという話。
これって、正しいか正しくないかで言えば絶対的に正しくて、反論の余地は一切といっていいほどないんだよな。
そして、世の中の至るところで効率化が推し進められ、「昔に比べてすげぇ便利になったな」とか思うことも多い。
例えば出前館なんて、2~3分スマホを触って30分ほど待ってれば家のインターホンが鳴り、配達員の顔すら見ないうちに注文品を受け取って、即座に「さあメシの時間だ」なんて言ってる自分がいる。すでに温かいんだから電子レンジを使う時間すら必要ない。
他にも「ちょっと欲しいものがあるんだよね」と言いながらこれまたスマホを2~3分も触れば、欲しかったものが僕の住んでいるような、年間に観光客の数人が遭難して死ぬような山中の僻地であろうと翌日には届く。
しかしながら、この「効率化」が進めば進むほど、そのスピード感っつーのかな、それについて行くのがしんどいなと思うことや、なんだか「時間を無駄にすることは罪なのだ」という概念に囚われるような気分になることも増えた。
きっとそういう人が世の中には多いんだと思う。
最近、身の回りの誰かや不特定多数の誰か、もしくは有名人に対して、
時には多すぎる仕事、それを平然と投げてくる会社などに対して、感情的になっている様子をよく見る。僕だってその一人になっていることは多い。
それって、「人員削減」だの「業務効率化」などと言って一人あたりの仕事量がパンク寸前にまで増加したり、
情報の拡散効率とスピードが飛躍的に上がり、その情報量と速度が人間の処理能力を遥かに超えているからこそ起こることだよな。
仕事も勉強もする必要などなく、みんながそれぞれ家でゴロゴロしていても生活や健康が保証されている世界で生きていたら、感情的になることって多分めちゃくちゃ少ないと思う。
人間って、感情的になるのは「余裕のない時」で、決して例外はない。
だから、最近ね、「余裕を持とう」という自己暗示を無理やりかけることが増えた。
現代人は僕も含め皆が何かに追われるように生きている。
余裕がない時ってパニック状態にあるとも言える。パニックになった時ってとにかく冷静になる必要があるし、自分自身を見つめ直す時間が必要だ。
また、余裕を持つことは人生を楽しむためにも必要だ。 何かに追われていると、周りの景色を見ることも、自分を取り巻く周りの空気を感じることもできなくなってしまう。
余裕さえあれば見つけられたはずの、自分にとっての幸せのかけらを見落としてしまうことにもなりかねないし、
余裕さえあれば尊重できたはずの、大切な人を失ってしまうことにも繋がりかねない。
近頃は、のんびり適当に生きることが難しいなあと感じることが多いかもしれない。けど、そんな時だからこそ、無理はしないってことを大事にしたい。
最後に、誰かが言ってた言葉の受け売りを。
「究極の効率化は、生まれてすぐに墓に入ることだ」
効率的に無駄なく生きるって、人間にとって本当に大事なことなんでしょうかね。
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