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(小説)笈の花かご #15

4章 エレベーターは5階まで⑵

鴎イチロウが、その日、何用あってか、人気ひとけのない暁に、2階事務所に出掛けたのである。
居室の5階に戻って来て、エレベーターを下り、数歩あるいた所で、バッタリと転倒した、という次第。
倒れ込んだのは、エレベーターホールに設置されたテーブルセットの下であった。
エレベーターホールに、ガタンという大きな音が響き渡ると、
「何事か」とドアを細めに開けて様子をうかがった入居者が何人かいた。音は一瞬で、後はシンと静まり返っていた。
鴎イチロウは、声が出なかった。
(何とか、ナースコールを押さなくては……)
ハーハーと息を吐きながら、彼は、床に腹這いのままで動けなかった。
部屋から出てホールまで様子を見に来る人はいなかった。

彼は、やっとのこと、匍匐前進ほふくぜんしんして、自分の部屋に戻った。
何とかナースコールを押すことが出来た。
バタバタとKK病院に搬送された。
左の前腕にヒビが入っていた。
鴎イチロウは、黒い副木で固定された腕を抱えるようにして、モクレン館に帰って来た。

鴎イチロウの転倒は、これが初めてではない。
4ヶ月前に転倒してKK病院に運ばれたことがある。
この時は右の前腕を骨折していた。

1回目の転倒事故は、次のような次第であった。
モクレン館から200m程の所に、コンビニを少し大きくした規模のなんでも屋の店がある。
鴎イチロウは、いつもその店で買い物をしていた。
通い慣れた店であるのに、彼は、入り口の僅か2㎝ばかりの段差に躓いた。モタモタ状態になり、KK病院に緊急搬送された。
目撃者の話がある。
「柔道の受け身ですね、ゆっくり上手く転がったようです」
鴎イチロウは、グラッとして倒れかかったが、とっさに右腕を下にして転がったらしい。
(こんな所で転ぶなんて、みっともない……)
鴎イチロウは、躓いたことを認めず、「熱射病で倒れた」と、言い張った。3日ばかり入院したから、あながち間違いとは言い切れない所である。実際の所、鴎イチロウは、僅かばかりの段差に躓いた自分自身のことが許せない思いである。
入院治療を受けること3日で、鴎イチロウは元気を取り戻し、モクレン館に帰って来た。
大きな半円形の歩行器が付いて来た。
彼の右の前腕は副木でしっかりと固定されていた。
移動する時は、歩行器の上部に右腕を乗せ、左腕を使って方向をコントロールして歩いた。 
腕を骨折すると、白い三角巾で、腕を吊る処置が施されるが、鴎イチロウは拒否した。
(大げさな!たかだが、ヒビが入っただけやないか、恰好が悪い……)

その1回目の転倒事故以来、鴎イチロウは、単独での外出は禁止となった。
鴎イチロウの骨折は思ったよりも早く回復した。
しかし、医師は、モクレン館内を移動する時でも、引き続き歩行器を使用するようにきつく念を押した。

せっかくの医師の忠告にもかかわらず、鴎イチロウは、2回目の転倒の時、歩行器を使っていなかった。
忘れたのか、「まあいいや」と軽く考えていたのか。鴎イチロウは、「いや、お恥ずかしい」と言うばかり。
その後、鴎イチロウは、すぐそこまでだから、歩行器を使わなくてもいいか、という安易な気持ちでいた。
事実、彼は、何度も歩行器を忘れて食堂に現れた。
その度、職員が彼の部屋から歩行器を運んで来ることになった。



次では鴎さんが気にかけている人物が登場します

→(小説)笈の花かご #16
4章 エレベーターは5階まで⑶
 へ続く




(小説)笈の花かご #15 4章 エレベーターは5階まで⑵
をお読みいただきましてありがとうございました
2023年10月21日#1 連載開始
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
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